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徒然三国志


「三国志に学ぶビジネス処世術」

その2.カギは『適材適所』と『人材育成』にあり

〜諸葛亮(しょかつりょう)に学ぶ人事の難しさ〜

 組織を運営する時に重要なのが『適材適所』と『人材育成』である。実はこの二点に於いては、あの諸葛亮ですら、驚く程の失敗の連続であった。あの街亭での大敗北の時、諸葛亮は人事面で二つの大きなミスを犯した。

一つめは、経験豊かな呉懿(ごい)や魏延(ぎえん)の推挙を拒否し、生前の劉備の忠告を無視して馬謖を総司令官に任命した事だ。その結果、将来を嘱望していた馬謖(ばしょく)を命令違反と敗北の罪で刑死させた。

二つ目は馬謖の副将に王平(おうへい)を任命した事だ。その実戦経験に加えて、魏からの降将でもあり、その内状や地理にも詳しかったであろう王平だが、彼は文盲であった。そんな王平を副将として付けられた馬謖はどう思うだろうか?俊才の呼び声高い彼が、王平の進言を軽く扱うという懸念は容易に想像できる。

つまり街亭での敗北、馬謖刑死の一因は、諸葛亮が馬謖の性格、王平の状況配慮を怠ったが為とも言える。諸葛亮の無配慮が一因で有能な人材を失った顕著な例が他にもある。 それは、後年、陸遜(りくそん)に比肩するとまで評された李厳(りげん)を前線に配置せず、食料輸送を中心とした広報支援の責任者とし、結果、職務怠慢及び責任回避に伴う隠蔽工作を招き、李厳を庶民に落した件だ。 この様に諸葛亮は大切な戦局に於いて、人事面で数々のミスを犯しているのである。

反対に曹操(そうそう)は『適材適所』の人事には非常に優れていた。例えば彼は対呉戦線の要地、合肥に張遼(ちょうりょう)と楽進(がくしん)、そして李典(りてん)を配備していた。李典は私怨で張遼を快く思っていなかったが、呉との戦の時、李典は「国家の緊急時と私怨は別」とし、張遼と共に出撃し呉を撃退している。 曹操は李典の気質を踏まえた上で、三名の武将の力量を見事に融合させたのだ。

曹操は、初めから有能な処士を多く掻き集めたので、『育成』についてのエピソードは少ないが、南宋の劉義慶の著書、「世説新語」には強烈なエピソードがある。彼の側にはある歌姫がいた。彼女の歌は上手かったが、性格が悪かった。曹操はその歌姫に、別の女官に歌を教えさせ、その女官の歌の技量が歌姫のレベルに達したところを見計らうと、歌姫を殺害し、女官を自分の側に置く事にしたのだ。曹操らしいダーティーで貪欲な『人材育成』だ。

この様に三国志には『適材適所』や『人材育成』に纏わるエピソードも非常に多い。
諸葛亮の場合は、法正(ほうせい)やホウ統(ほうとう)の早世や荊州の陥落の処置に追われ、更には劉備(りゅうび)亡き後の益州人士と荊州人士の複雑な人間関係の最中に合った。数々のアクシデントや境遇に伴い、彼一人で国家の舵取りをする羽目になったのも事実である。

だからこそ自分の片腕や多くの後任を育成する事は急務だっただったはずだ。結果論として、諸葛亮はそれらを怠ったが故に、後の蜀漢の慢性的人材不足の一因を作り、ひいては蜀漢王朝滅亡の遠因を作った。歴史上、偉大な名軍師でも『適材適所』と『人材育成』には苦慮したのだ。

現代に生きる我々も組織や企業で人材不足を嘆く前に、まずは配置と育成に心血を注ぎ、長期的視野で未来への活路を開く努力は惜しまない事だ。


 文:傅僉さん

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