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徒然三国志


「三国志に学ぶビジネス処世術」

その3.賈クに見る処世術の極意

 生と死が常に隣り合わせの戦乱の時代に、地位と名誉を保持したまま天寿を全うする事は至難の業であった。秦の名将王翦(おうせん)は始皇帝(しこうてい)の異常な猜疑心を理解し、功を打ち立てた際に、必要以上に恩賞をねだり「自分の頭の中は恩賞の事しかない。」とアピールし周囲を欺き天寿を全うした。

さて、三国志に於いても、その様な処世術の達人として、私は賈ク(かく)の名前が浮かぶ。曹操(そうそう)の軍師として、馬超(ばちょう)と韓遂(かんすい)らを離間の策にて瓦解させた、あの賈クである…。

賈ク。字は文和。武威郡姑臧県の人。若い頃、テイ族の叛乱に遭遇した際、自らを当時勇名が知れ渡っていた豪族の外孫と騙り、難を逃れた。その時、彼の同行者は彼を除いて全員殺害されてしまったが、恥や外聞を気にせず、必死の機転で命を得た。「命あっての物種」。ましてや戦乱や飢饉で大混乱の当時、誰が彼を攻められようか?大事を成す為に小事に拘っていては何も出来ない、元も子もないという良い事例だ。

後に彼は、董卓(牛輔)・李カク・ 張済・張繍・曹操(魏)と主を替えた。その度に多くの助言・献策をし、功績を得たが過大な恩賞を受ける事なく清廉潔白を貫いた。妬みやひんしゅくを買わない為の必須の行動である。

 張繍(ちょうしゅう)に仕えていた頃、曹操軍に大打撃を与え曹操の長子曹昂(そうこう)や懐刀典韋(てんい)を討ったのは有名である。後にその曹操に仕える事になるのだが、曹操の息子と腹心を戦死させておきながら彼の幕下に加わった賈クの胆力は実に凄まじい。智謀、処世術に余程の自信が無ければ出来る事ではない(迎え入れた曹操の度量も素晴らしいが)。

 後年、曹操が後継者を思案していた時、意見を求められた賈?はあえて黙したまま何も語ろうせず、後継者争いによって国を分裂させた袁紹・劉表の失敗例を述べ、暗に長子曹丕(そうひ)を後継として推挙した。直言を避けることによって無駄な派閥争いを避ける、彼なりの配慮であった。

因みに賈クは曹丕に「兄を殺した」と恨まれていたが、ここで名誉挽回も試みたのだ。その甲斐あって曹丕は、皇帝に即位すると即、賈クを最高位の三公の一つである太尉に任命した。高位を得ても彼は、朝廷で勤めを終えるといつもすぐに帰宅し、他者と交際を拒んだ。常日頃より派閥争を避け、配慮を怠らず、醜い感情が織り成す宮中でも仕事に邁進した。

また、天下が「曹」から「司馬」に委譲した際、「曹」との繋がりの深い多くの家は没落したが、賈クの子孫は英名を保ちながら続いていったという。それは賈クが子供達の結婚に気を使い、平凡な家柄の相手との結婚を勧めたからだった。

昨今、中途退職者が増えている。主な理由として給与・賃金への不満が約四割、人間関係の不満が約二割に達するという。くだらない上司や不遇に甘んじることも無いとは思う。

だが、賈クの様に、その都度、常に周囲の環境に留意し、行動することによって、おのずと道は開けるものだ。千八百年前の中国と現代の日本。その根幹の心意気は決して変わるものではない。

因みに、正史の『三国志』に注を施した裴松之だが、賈クに対しての評価は辛い。惜しむらくは、儒の教えの色濃かった往時、「処世」は「保身」と混同されたという事だ。

文:傅僉さん

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