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徒然三国志


「三国志に学ぶビジネス処世術」

その4.虞翻の処世、有りや無しや

 己を貫くか、妥協するか…。人の処世は様々だ。己の考えを捨て、組織の舵取りに意欲的に協力し出世する人もいれば、己の意見が正しいと信じ、躊躇なく上役に諫言し、時に疎まれ出世しにくい人もいる。どちらが正しいというわけでもない。基本的にどちらも重要な人財であるとは思う。

呉の虞翻(ぐほん)(164〜233)。会稽郡余姚の人。

己を貫き諫言し、左遷の憂き目にあっても呉に忠節を尽くした人物だ。彼は参謀であり老荘思想に卓越した学者でもあり、易経に精通した占術家だった。同時に矛術に長け馬も不要な程の健脚家な武芸者であった。更に医術に長け、相当なオールマイティな人物だ。

 故に、自分に確固たる自信もあるので、惰弱した発言、行動が許せない人物であった。
蜀を裏切り呉に投降した糜芳(びほう)や、関羽(かんう)に降伏後、呉に入った于禁(うきん)を罵倒したり、主の孫権(そんけん)にも遠慮なく諫言。呉の行く末を彼なりに常時、慮っていたからだ。

疎まれはしたが、張紘(ちょうこう)の様に『美宝をば質と為せば彫摩すれば光を益す。以って損なうに足りず(虞翻は彫られ磨かれ輝く人物だ。悪評等で損なわれる事はない)』と虞翻を評価する人物もいた。

この評価どおり、彼は己を貫き修身していったが、虞翻の不遇を惜しむらくは、彼には張紘の様な理解者やが皆無だった。諸葛亮(しょかつりょう)も、劉備(りゅうび)陣営に身を投じた頃は正に異分子だったが、徐々に周囲の信頼を得、蜀漢王朝の舵取りを任されるに至った。

結果、虞翻は左遷され僻地交州へ流された。

頑固な虞翻が間違っていたのか、或いは虞翻という異分子を使いこなせなかった孫権が悪いのかは分からない。ただ陳寿は『古の狂直にして、固より末世に免れ難し。然れども権の容るる能わざるは曠宇に非ざるなり(要は、剛直で行き過ぎた言動も多かった虞翻だが、彼を使いこなせなかった孫権もまた狭量であったという事)』という言葉を残している。

さて、交州で虞翻は数百人の徒弟を抱え、光孝寺という寺院で学問を教えながら余生を過ごした。二度と朝政に戻る事なく…。

その後、孫権は遼東問題拗れ虞翻を呼び戻そうとしたが亡くなっていた、という小話もある。やはり孫権にとって虞翻は必要な人財だった。あの世で虞翻はほくそ笑んだか?

そして現代…。慢性化に陥ったり、業績が伸び悩んだり、事業拡張を躊躇する企業や組織もあるだろう。そんな境遇下、意外と力を発揮してくれるのは虞翻の様な既成概念に捉われない人物かも知れない。御社の「虞翻」の言葉に耳を傾ければヒントの一つも得られるかも知れない。

文:傅僉さん

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