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三国志入門

《三国演義》の時代

《三国演義》という読み物は、元(げん)末から明(みん)初を生きた羅貫中(らかんちゅう)が書いた作品である。これは、後漢末から三国時代を舞台にした小説であり、数多くの英雄・豪傑を大きなスケールで描いている。
 小説というものは、よく時代を反映しているものが多く、当時の民衆の視線、文化、歴史がおおいに影響している。《三国演義》も例外ではなく、羅貫中という作家の目線がどこにあったかを把握できるし、当時の情勢をうかがうこともできる。元末から明初と聞いて思い浮かぶのは、まず明太祖朱元璋(しゅげんしょう)であろう。元末の政治腐敗、宗教反乱、民衆蜂起……、《三国志》や《三国演義》を既読の方は、元末と後漢末の混沌とした時代が非常に似ていることに気が付くはずだ。そして朱元璋はもとを正せば、一介の乞食。だが、その目は前を向き、多くの豪傑と交友を持っていた。さらに、軍に身を投じ、一兵卒から飛ぶ鳥を落とす勢いで頭角を現してゆく。まるで、これは、《三国演義》の劉備ではないか。ここで、作家羅貫中は朱元璋に目を向けたのではないだろうか。
 当時の民衆の三国志といえば、講談師が語っていた三国志やそれらをまとめた
《三国志平話》が挙げられた。《三国演義》もこの流れを汲み、羅貫中はこの講談や《三国志平話》を種本として、《三国演義》を作り上げたとされる。

講談三国志と《三国志平話》

《三国志平話》は、元末の至治年間(1321−1323)、建安の虞氏が書き、建陽の本屋が出版したものである。正しくは《新全相三国志平話》といい、この場合、絵入り本のことを指す。上段が絵で下段が文章という、当時流行った小説のスタイルである。この小説は、漢王朝創業の功臣であったにもかかわらず、高祖(こうそ)や呂后(りょごう)の陰謀によって反逆罪に問われ処刑された韓信(かんしん)、彭越(ほうえつ)、英布(えいふ)の三人がそれぞれ曹操、劉備、孫権に転生し、高祖は献帝(けんてい)に、呂后は伏后(ふくごう)に転生して罪の償いをするという物語で進められている。仏教の輪廻転生の類の転生譚である。たとえば、曹操が伏后を処す場面があるが、これも罪の償いのひとつだ。結末は、蜀が魏によって滅ぼされた際に漢帝の外孫が逃亡して後に晋を滅ぼして漢を再興させる、といったもの。この外孫とは劉淵(りゅうえん)のことで、西晋内乱を機に山西平陽で漢王の位につき、やがては光文帝と称すことになる。しかしながら、この劉淵は外孫ではないどころか、漢民族でもない。匈奴(きょうど)の族長であった。
《三国志平話》が成立したのはモンゴル族による統治の時代であり、この小説ではモンゴル族の統治について、漢帝の外孫である劉淵の建国を正当化することで当時の時代背景を語っている。
《三国志平話》が《三国演義》の種本ならば、講談師の語る三国志は《三国志平話》の種本である。講談は民衆の娯楽であり、非常に受けがよく、これは唐代からあったとされる。劉備が善玉、曹操が悪玉と語られ、長坂(ちょうはん)で劉備軍の趙雲が曹操軍の中を一騎駆けする場面、これまた劉備軍の張飛が曹操軍の前で仁王立ちし曹操軍を退ける場面、といった「長坂の戦い」を講談師が語ると民衆は息を呑み、豪傑の活躍で歓声をあげていたとされる。日本では判官贔屓(はんがんびいき)という言葉があるが、中国でもやはりこれは存在し、弱い立場からのしあがってゆく劉備を民衆は支持していたのである。そして、この民衆の視線から成り立っている三国志や、その時代の問題を羅貫中は土台にし、完成したものが《三国演義》なのである。また、先に述べたとおり、民衆の英雄である劉備と境遇が非常に似ている朱元璋。鉄の軍律でもって民衆に支持された朱元璋。これも羅貫中は最大限に利用している。

「赤壁大戦」と「[番β]陽湖(はようこ)の戦い」

私たちがよく知る「赤壁大戦」を挙げてみよう。赤壁という場所は長江の流域にあり、その両岸に劉備・孫権連合軍、そして曹操軍が布陣していた。この戦いは兵力が圧倒的に不利な中、劉備・孫権連合軍が、侵攻してきた曹操軍の船団を打ち破る、といったものである。《三国演義》の第四十五回で孫権配下の周瑜が、劉備配下の諸葛亮に「曹操の兵は八十三万、私たちの兵は五六万……」と語っているように兵力の差は歴然。それをいかにして打ち破るか。連合軍が採った策は火攻めであった。ここで《三国演義》は、諸葛亮を神化させ、風を起こさせて火攻めに都合のよい舞台を作り出している。諸葛亮の風乞いの祈祷は成功した。連合軍は諸葛亮が吹かせた風に乗じて、火をつけた船を曹操軍の船団に突入させるのである。曹操軍は敗退するのであった(《三国演義》第四十九回)。以上が「赤壁大戦」のあらましである。この火攻めによる戦いは、《三国志》呉志周瑜(しゅうゆ)伝や呉志黄蓋(こうがい)伝にもあるが、曹操軍が敗退した真実の理由は別にあるとされている。《三国志》魏志武帝紀(ぶていき)には、「公、赤壁に至り、備と戦いて利あらず。これにおいて大疫ありて、吏士死する者多し。すなわち軍を引きて還る」とある。つまり、曹操軍では疫病の流行があったのである。北方出身の兵が多い曹操軍は水上戦が苦手なばかりではなく、船にも乗り慣れていなかったため、船酔いで体調を崩す者が後を絶たなかったという。そのような中の連合軍による火攻めと疫病の流行。いかに兵が多くとも、士気が落ちては戦にもならない。曹操は軍を立て直すことはできない、と判断して自ら退かせたのである。なお、《三国演義》には曹操軍の兵力は八十万とあるが、正確には二十余万である。これでも兵力の差は歴然としているが、さらに連合軍の勝利を引き立てさせようと羅貫中は考えたのであろう。そして《三国演義》での周瑜が率いる連合軍の船団にはさまざまな船種があり、そのひとつにしても連合軍勝利へと導く大切な要素である。《三国演義》の「赤壁大戦」にはとても臨場感があり、また、《三国演義》の周瑜の指揮は、朱元璋が指揮を執った「[番β]陽湖の戦い」に似ている。
 1963年、[番β]陽湖で朱元璋軍は陳友諒(ちんゆうりょう)軍と激突した。両軍の形勢としては、陳友諒軍が六十万の大軍を称し、朱元璋軍は二十万の軍を擁していた。また、水上戦にあたって、陳友諒軍は高く大きい船をつなげて布陣し、長さは十数里にも及んだという。それに対して朱元璋軍は小さな船が全てであった。軍の威容からして陳友諒軍に軍配が上がった。戦闘は三日間に及び、戦況は終始陳友諒優勢。朱元璋の旗色は悪くなる一方である。自軍が劣勢と見た朱元璋は機転をきかせ、陳友諒軍の補給路を断つなどの工作をはじめた。さらに、この戦いでもっとも重要な戦術の工作をはじめたのであった。まず周辺の漁船を集め、それに枯葉を積み、火薬を仕込ませる。次に火砲、火銃、火箭(かせん)、火[草冠に「疾」]藜(かはまびし)などの火器という火器を揃えた。そして東北の風がきたるや、枯葉と火薬を仕込ませた船に火をつけて陳友諒の船団に突入させた。風下の陳友諒の船団は炎に包まれる。さらに悪いことに、朱元璋の小型の船とは違い、陳友諒の船団は大型の戦艦で構成されている上、船団はつなげてあった。小回りがきかず、身動きもできない。火攻めによって、壊滅的な打撃を受けてしまったのであった。朱元璋は好機を逃さない。すぐに短兵を投入して
総攻撃をかけた。この戦いは朱元璋の逆転勝利で幕を閉じたのであった。

おわりに

《三国演義》という読み物は、いろいろな角度から読むことができるとてもおもしろい読み物である。自分が英雄・豪傑になったつもりで読んでもいいし、後漢末や三国時代の人々の生活に思いを馳せてもいい。さらに、《三国演義》ができた背景や羅貫中の視点を探してみるのも一興だ。

とにかく何通りもの読み方がある――、これが《三国演義》である。
《三国演義》は古典である。古くから存在する読み物である。消え去ることはなく、今日も読むことができるものだ。これはなぜか。やはり、おもしろいからに決まっている。

文:恩金さん(中国文学専攻)

    参考文献
  • 羅貫中撰、毛宗崗批、饒彬校注《中国古典名著 三国演義(上・下)》三民書局.1971年4月
  • 井波律子・訳『三国志演義』ちくま文庫.2002年10月9日
  • 晋陳寿撰、宋裴松之注《三国志》中華書局.1959 年
  • 《三国演義辞典》巴蜀書社.1989年6月
  • 許盤清、周文業整理《《三国演義》《三国志》対照本》江蘇古籍出版社.2002年9月
  • 金文京『三国志演義の世界』東方書店.1993年10月30日
  • 金文京『中国の歴史04 後漢三国時代 三国志の世界』講談社.2005年1月14日
  • 呉ヨ《朱元璋伝》人民出版社.1985年10月

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