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三国時代の食事
 

●「三国時代の食事再現&入門」   文:一条さん

英傑コラムその2 七草粥と三國志?の不思議な関係

 2017年、遅くなりましたが、皆さん明けましておめでとうございます。
 今年も九州、西日本を中心に三國志をはじめ歴史を中心に活動を行っていきますので、よろしくお願いしま
 す。

 さて、皆さんは七草粥(ななくさがゆ)を食べられましたか?

 「せり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ」

 これらの植物の若芽をお粥に入れて1月7日に食べる、一年の無病息災を祈ります。
 
 七草粥の風習は中国に起源を持つと言われています。
 6世紀、南北朝時代、梁の宗懍が記した『荊楚歳時記』にその記述が見えます。

 「正月七日を人日と為す。七種の菜を以て羹を作る」

 「人日」というのは「人の日」ということ。
 1日は鶏の日なのでこれを殺さず、2日は狗(犬)の日なのでこれを殺さず、3日は羊の日、4日は猪(豚)の日、
 5日は牛、6日は馬、そして7日は人の日なので刑罰を行わない、という日です。
 その日には七種の野菜で「羹(あつもの、具だくさんのスープ料理)を作るのが行事食であったようです。

  これがなぜ日本に伝わったとき、「羹(あつもの)」から「粥(かゆ)」に変わったのでしょうか?

  「羹」は古代から中国においてメインディッシュとも言える料理で6世紀の料理を詳細に記した『斉民要術』に
 も様々な「羹」の作り方が記載されています。その中でも多いのが、具と調味料、それに米を入れてとろみを
 つけた料理法です。これは「白羹」と呼ばれる技法で、それに対し、具材だけをシンプルに煮込み、食べる人
 おのおのが味付けをする羹を「大羹」といいます。現代の中華料理も、片栗粉などでとろみをつけた料理を思
 い浮かべることがありますが、
 中国人のとろみ好きは古代からだったかもしれませんね。

  その他、豚や魚の蒸し料理なども、調味料と米を混ぜて蒸した料理が多く、米を主食であると同時に、食材
 としても積極的に使っていたようです。これは、当時の精米方法が関係していると思われます。
 現在の精米機は、ゴム製のローラーで籾殻のついた米を挟み込むようにして精米しますが、当時は臼に精
 米する前の籾を入れ、杵でまるでお餅をつくように舂いて籾殻を取り外していました。その過程で米が砕け、
 それを食材として使ったのではないでしょうか。そしてそれがより米を大事にする日本に伝わり、おかずであ
 る「羹」から主食になる「粥」へと変わったのだと思います。 

  荊楚は三國志の時代で言えば荊州。荊州と言えばご存じ、琅邪から逃れた諸葛孔明が劉備と出会うまで
 若き日々を過ごした土地です。
 『荊楚歳時記』が書かれたのは孔明の時代より350年ほど後ですが、この風習がもし荊州で古代から続くもの
 であったなら、ひょっとしたら、孔明も正月の七日は家族と一緒に七草の羹を食べていたのかもしれません。

  その他、1月7日は綵(あやぎぬ)や金箔で作った人形を屏風に張ったり髪に飾ったり、山に登って詩を読ん
 だり、かと言えばこの日の夜は故獲鳥(うぶめ)という怪鳥が子どもをさらいに来るので床や戸を叩いてこれ
 を追い払ったりと、忙しい日であったようです。

  七草粥の風習はその後日本に伝わり、延喜式にも記述がある宮廷行事として奈良、平安の時代から行
 われていたそうです。ただし、あくまで宮廷行事でそれが広く民衆の間にいつ頃伝わったかは諸説あります。

 その説の1つに、江戸時代に中国から日本に渡来した、隠元(いんげん)という僧が伝えたのではというもの
 があります。

  関ヶ原の戦いを経てその地位と権力を確固たるものとした徳川家康は大坂夏の陣で豊臣家を倒し、徳川
 幕府による支配と統制の強化を確立させます。それは武家、禁中、公家、そして寺社に対しても行われまし
 た。得に臨済宗では徳川幕府による寺社への介入に対して、強硬な反対派と穏健派の対立が起こり、禅とし
 ての臨済宗は大きく衰退することになったそうです。
 
  そのありように心を痛めた穏健派の僧は、禅の本場、中国より、当時から日本でも高名だった隠元を長崎
 に招聘します。1654年、63歳でのことです。長崎の興福寺に入った隠元は3年の後に中国へ帰国する予定で
 したが、その人柄と禅の教えを人々は慕い、京都、 宇治に黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)を開きま
 す。そのまま中国には帰らず、日本で生涯を終えます。隠元の教えを伝える宗派を黄檗宗(おうばくしゅう)と
 言い日本三大禅宗に数えられます。当時は隠元の教えとその宗派は武士にも庶民にも非常に人気でした。

  禅の教え、仏教の教えをはじめ、隠元は様々なものを日本に伝えました。
 その名前の元となった「インゲン豆」をはじめ、スイカ、タケノコなどの野菜、印刷の書体となる「明朝体」、そ
 れを印刷するための20字×20字のマス目が打たれた紙、つまり原稿用紙の原型も隠元が伝えたと言われて
 います。また、抹茶を点てるのではなく、茶葉をお湯で煮出した煎茶(せんちゃ)もそうです。七草粥の風習も
 その1つと言われています。その他、仏教には欠かせない木魚(もくぎょ)も隠元が日本にもたらしました。

  また、黄檗宗の寺院は隠元が暮らした、明末清初の文化を色濃く現代に伝えています。
 門や瓦の形などは唐様ですし、円形の窓も中国らしさを感じます。現在でも黄檗宗はお経を中国語の発音
 「唐音(とうおん)」で読みます。長崎のお寺では、門の下の方に短い仕切り板を入れるところがありますが、
 これは昔お寺で豚を飼っていたので、それが逃げ出さないように入れていたとのこと。お寺で豚を飼うという
 発想がまず日本にはありませんよね。

  そして仏像ですがご本尊の釈迦如来に加えて、中国の仏が祀られているのも特徴です。航海の安全を守
 る女神である媽祖(まそ)、合掌した手に剣を捧げ持つ韋駄天(いだてん)、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の化身と
 も言われる布袋様(ほていさま)、仏堂を守る華光菩薩(かこうぼさつ)など。

  そして、関帝(かんてい)さまこと関聖帝君(かんていせいくん)です。 

  関帝さまは皆さんご存じ、我らが劉備が桃園の誓いを結んだ義兄弟、関羽雲長が死後神格化された神で、
 中国では古くから広く信仰されていました。特に隠元が渡来した当時は福建省などで信仰が盛んで、華僑の
 人々も広く信仰していました。 黄檗宗は当時、その受け皿になったのではないかと、個人的には考えていま
 す。
  
  現在も残る黄檗宗の寺院には、関帝さまをお寺を守る伽藍神として祀ってあるお寺が多くあります。長崎の
 崇福寺(そうふくじ)、興福寺(こうふくじ)、福岡の千眼寺(せんがんじ)、大阪の清寿院(せいじゅいん)などで
 す。
 
  もちろん黄檗宗は禅宗なので関帝を主神として祀っているわけではなく、関帝を祀ってないお寺も数多くあ
 ります。現に大本山の萬福寺の関帝廟は、開山のときにはなく、後世作られたそうです。
 また、日本の関帝廟も黄檗宗と関わりのないところも多くあります。横浜の関帝廟はその最たるものでしょう。

  ですが、アジアに多様に広がりを見せていた関帝信仰の、日本におけるその一端を担っていたのが黄檗宗
  であると言うことは出来るでしょう。ちなみに福岡市の西新にある千眼寺では、ご本尊の釈迦如来の両側に
 達磨大師(だるまだいし)と関帝さまが祀ってあります。

  日本のお正月は終わりましたが、中国はこれから。1月28日から春節がはじまります。日本の中華街では様
 々な催しが開かれます。中国と日本の複雑な関係を思いながら、中華街を訪れてみてはいかがでしょうか。 
 

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