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三国志を作る
我々の愛する三国志を形にしていきます!題して「三國志を作る」

追記: 2011年てんごさんとKOBE三国志ギャラリージオラマ館のフィギュア制作ご一緒に行いました

-----  三国志武将 (胸像)  -----
----- 三国志ジオラマ -----
   
No.001
太平教団幹部会議
  公孫淵 献帝 諸葛亮 羊コ 満寵 朱然  
No.002
董卓、北芒に天下を得る
  張バク 張魯 劉備 王濬 荀イク 呂岱      
  陶謙 孟達 蒋エン 杜預 曹仁 徐盛      
  劉ヨウ 公孫サン 費イ トウ艾 曹洪 張昭      
  劉璋 呂布 諸葛誕 鍾会 曹休 魯粛      
  李カク 董卓 カン丘倹 夏侯淵 曹真 呂蒙      
  郭シ 袁術 文欽 夏侯惇 曹爽 陸遜      
  張済 袁紹 孟獲 陳羣 曹叡 陸抗      
  何進 ホウ統 魏延 張遼 曹丕 孫晧  
--- リスペクト人形劇三国志 ----
  劉表 馬謖 趙雲 于禁 曹操 孫策  
劉備 関羽 張飛
趙雲 諸葛亮 司馬徽
呂布 貂蝉 董卓
曹操 夏侯惇 張遼
周瑜 孫権 魯粛
  文醜
馬超 司馬懿 張コウ 曹奐 孫権  
  顔良 劉禅 司馬師 徐晃 張角 孫堅  
  淳于瓊 姜維 司馬昭 賈ク 諸葛恪 周瑜  
  袁尚 黄忠 司馬炎 張繍 孫峻 盧植  
  袁譚 張飛 賈充 郭淮 孫チン 曹植  
    関羽   臧覇 丁奉    

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曹植
曹植 (そうしょく)

 字は子建。曹操の子。杜甫(とほ)以前には「詩聖」と謳われた。
 幼少より詩文に巧みで、曹操に大変愛された。
 このため曹丕と後継を争うこととなるが、ひたすら孝行に努める曹丕と対照的にいわゆる天才肌の彼は奔放にふるまい、徐々に曹操の寵愛を失っていった。結局、後継は曹丕に決まり、彼は冷遇されることとなる。
 その後も政権に参画してその手腕を振るいたいと願ったが容れられることなく、西暦232年病没した。

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盧植
 盧植 (ろしょく)
 字は子幹。後漢末の学者、政治家。
 門人には若き日の劉備、公孫サンがいる。
 九江太守として治績を挙げる一方、古典の研究にも活躍、侍従・尚書に進んだ。
 西暦184年黄巾の乱が起こると北中郎将に任じられ、太平教団の本拠地・キョ鹿を攻め落とし教祖張角(ちょうかく)を広宗に包囲した。
 しかし、戦線視察に来た宦官に賄賂を渡さなかったため讒言され、罪に問われて解任されてしまう。後に皇甫嵩らのとりなしで官界に復帰したが、董卓が政権を掌握し天子の廃立を主張するとこれに反対した。このため董卓に殺されそうになるが諸将の助命嘆願により助かることができた。
 これを機に盧植は政界を引退し、192年病死した。
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周瑜
周瑜 (しゅうゆ)

 字は公瑾。呉の創業を支えた名将。
 孫堅が反董卓連合に参加すると家族を舒に移住させた。これが彼と孫策が知り合うきっかけとなる。
 西暦194年、孫策が江東に攻め入ると周瑜も兵を率いてこれに参加し、劉ヨウを打ち破った。
その後しばらくは袁術のもとにいたが彼が大業をなす人物でないと失望し、孫策に仕えた。
 孫策が急死するとその弟・孫権を補佐した。
 西暦208年、
曹操が荊州を降して呉に攻め込んでくると、精鋭の水軍を率いて赤壁に対峙し火攻めをもってこれを撃退した。これに勢いを得た呉軍は荊州南部で曹操軍と攻防戦を繰り広げ、ついに曹仁を江陵より撤退に追い込んだ。
 さらには益州を占領し、涼州の馬超と同盟して曹操を討とうとする戦略構想を周瑜は持っていたが、それに着手した矢先病死してしまった。

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孫堅
孫堅 (そんけん)
 字は文台。孫家軍閥の創始者。孫子の末裔?
 17歳のとき海賊を討って名を挙げ、役人に取り立てられた。黄巾の乱ではエイ川・エンで黄巾軍を大敗させた。その後各地で続発する反乱を鎮圧して武功を重ねた。
 西暦189年、都が混乱し、董卓が政権を握ると関東では反董卓の気運が高まった。
孫堅も挙兵し連合軍に協力しない刺史・太守を殺害してその兵を吸収しつつ北上し、魯陽にいた袁術の指揮下に入った。
 梁においてこそ董卓軍に敗れたものの、陽人で董卓軍を撃破したのを皮切りに連勝して洛陽入場を果たした。洛陽では董卓により荒らされた皇帝の陵墓を修復している。
 董卓が長安に去って以来、袁術と袁紹は対立するようになった。袁術は袁紹の同盟者である劉表攻略を孫堅に依頼、孫堅は劉表軍を蹴散らして襄陽を包囲したが、その郊外で伏兵に遭い戦死した。
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孫権
孫権 (そんけん)
 字は仲謀。呉の初代皇帝・大帝。
 孫権の次子である彼は、兄・孫策の死によりその跡を継いだ。軍事は周瑜、内政は張昭に委ね国内を纏め上げた。
 西暦208年、江夏を攻め落とし、父の仇・黄祖を討ち取った。同年、荊州を降し曹操軍が呉に攻め寄せてくる。このとき国内には降伏・抗戦の両論が噴出していたが、抗戦に国内世論をまとめ、周瑜に水軍を指揮させ、曹操軍を破った。
 江東を守るにあたり魏の合肥城は、喉元に突きつけられた匕首であった。208年以降幾度も出兵して合肥を攻略しようとしたが、魏軍の堅守にあって果たせず、215年には張遼に奇襲され、危うく戦死するところであった。
 西暦219年、関羽がハン城に攻め込むと、孫権は魏を密約を結び関羽の背後を襲いこれを敗死させ、荊州を奪還した。その後劉備が侵攻してくると、魏に臣従して両面作戦を避け、陸遜を大都督に任じて劉備を打ち破った。
 この後、蜀との関係が修復されると、呉蜀連合して魏にあたる方針に復帰し、魏から独立した。
これに怒った曹丕は曹仁らに大軍を与えて攻め込ませたがいずれも撃退した。
 以後、長江の天険をもって魏の侵攻を撃退し呉政権を安定運営したが、晩年には夷州や遼東に対する政策や陸遜の事件など老齢による弊害が目立ちだした。西暦252年病没。
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孫策
孫策 (そんさく)
 字は伯符。呉の創業者の一人。孫堅の長子。
 父・孫堅が荊州で戦死すると、派閥の長である袁術の元に身を寄せた。袁術は孫策を評価し九江、ロ江を攻略させた。このとき袁術は孫策に太守に任命すると約束していたのだがいずれも反故にされてしまい、孫策は袁術に失望し独立を考えるようになった。
 西暦194年、孫策の舅で袁術派の武将・呉景が曲阿で劉ヨウの攻撃を受けていることを口実に孫策は江東へ出兵、劉ヨウ・厳白虎ら諸軍閥を打ち破り揚州南部に地盤を築いた。
 西暦197年、袁術が帝位に即くと孫策は袁術と絶交し、曹操と結んだ。
 西暦200年、曹操と袁紹が官渡で対峙している間に許昌を攻め、帝を手に入れようと計画したが、以前殺害した呉郡太守・許貢の食客に暗殺された。
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孫晧
孫晧 (そんこう)
 字は元宗。呉の四代皇帝・最後の皇帝である。
 宰相のボク陽興・張布に擁立され即位した。彼は学問に優れ立派な人物という評判であったが、即位するとたちまち暴君に豹変した。
  擁立を後悔していたボク陽興・張布を殺害し、武昌への遷都を強行した。
 呉の軍事力は武将個人の私兵によるところが大きかった。孫権の末年以来、呉の政治情勢は不安定であり、武将たちに対する求心力は低下しつつあった。そして孫晧の治世は求心力に致命傷を与えてしまう。
 西暦280年、晋の大侵攻をうけた呉は組織的な抵抗ができず、あっさり滅亡してしまう。
孫晧は助命され、のち284年洛陽で没した。
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陸抗
陸抗 (りくこう)
 字は幼節。陸遜の次子。
 父の死後、その軍団を引き継いだ。西暦257年寿春で諸葛誕が反乱すると呉はこれに介入し諸葛誕を救援した。陸抗もこれに従軍し戦功をあげ、征北将軍に昇進した。その後鎮軍将軍、四代孫晧が即位すると鎮軍大将軍に就任し、呉の西部方面を指揮した。
 西暦272年西陵の督・歩センが晋に寝返ると、すぐさま動員をかけ西陵を包囲した。
晋は羊コらの援軍を向かわせたが、陸抗は包囲陣を整備しており、晋軍を撃退し西陵を陥落することができた。
 こののち官は大司馬にまで昇るが、274年病没。

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陸遜
陸遜 (りくそん)

 字は伯言。もとの名は陸議。孫権中後期の名将。
 21歳で孫権に出仕し主に山越などの不服住民の鎮圧に従事した。
 西暦219年、蜀の関羽が魏のハン城に出兵し、呉にとって荊州奪還の好機が到来した。
陸遜は呂蒙の後任として陸口に着任し関羽を油断させ荊州攻略に大いに貢献した。  
 西暦222年、劉備が関羽の仇を討たんと呉へ出兵してくるとこれを夷陵に迎え撃ち、持久戦に持ち込んで劉備を大敗させた。
 その後も呉の柱石として活躍、228年には曹休を淮南で撃破し、236年には諸葛瑾とともに襄陽に出兵している。
 西暦244年、丞相に就任。しかしこの当時孫権の後継者を巡り皇太子派と魯王派が対立していた。
陸遜は皇太子を支持したため、魯王派に讒言され孫権の信頼を失ってしまう。その後、
まもなく失意のうちに病死した。

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呂蒙
呂蒙 (りょもう)
 字は子明。
 15・16歳で孫策軍に従軍し、これをとがめた母親に『虎穴にいらずんば、虎子を得ず』と言ったとされる。その後も武功を上げ将軍に取り立てられた。
 このとき孫権に一軍の将たる者、武勇のみならず学識も必要と諭され、学問に励み魯粛をも感心させる学識を身につけた。
 以後はワイ南戦線を功績を挙げ、劉備との間で荊州を巡り争いが起こると長沙・零陵を占領した。
 魯粛が亡くなるとその後任として陸口に入り、魏蜀ににらみをきかせた。西暦219年、関羽がハン城を攻めた。このとき関羽は呂蒙を警戒して多数の守備隊を残していた。そこで呂蒙は病気療養のためと偽り建業に移った。果たして関羽は、守備隊をもハン城に動員、呂蒙は密かに軍を動かし荊州を攻略、関羽を敗死させた。
 その後まもなく病死した。


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魯粛
魯粛 (ろしゅく)
 字は子敬。周瑜が富豪の彼に援助を求めた際、彼は蔵ひとつを快く差し出した。これが縁で周瑜と交友を結ぶこととなり、また孫権に仕えることとなった。
 赤壁の戦いにおいては孫権と劉備の同盟を橋渡しした。その後も劉備と手を結びつつ曹操に対峙する対蜀協調外交を主張した。
  そして西暦210年、周瑜が没すると彼がその跡を継ぎ、呉の外交姿勢も魯粛のそれにシフトした。
 しかし、劉備が益州を得た後も呉が貸与した荊州南部を返還しないことにより孫権・劉備の関係は悪化、あわや全面衝突という事態に至る。このときも魯粛の活躍により湘水を国境線とすることにより一応の決着をつけることができた。
 西暦217年、病没。
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張昭子布
張昭 (ちょうしょう)
  字は子布。呉の幕僚筆頭。
 若いころから徐州を中心に名が知られていた。そのため陶謙に推挙されたがこれに応じず怒った陶謙に捕縛された経緯がある。その後解放されると江南に移住し孫策に仕えた。
  孫策が病死する際には孫権を託され、彼が軍団をうまく承継できるよう様々な建言を行った。
 赤壁の戦いでは周瑜ら武将たちが開戦論を主張したのに対し、降伏論を主張し論陣をはった。
孫権が皇帝に即位した後に張昭が宰相にされなかったのはこのときの遺恨があったからではという話もある。
 この後も、孫権にいたらぬ所があると態度をあらためるまで徹底して諫言し、そのために孫権と衝突することもしばしばであった。西暦236年病没。
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徐盛文嚮
徐盛 (じょせい)
  字は文キョウ。黄祖や曹操との戦いで武勇を馳せた。
  その後は劉備と西陵で、曹休と洞口で戦い大功を挙げた。
西暦224年曹ヒが広陵に進出し長江を渡って攻め寄せようとした際には、長江南岸に偽の城壁を作り防備が完璧であると装い魏軍を撤退させた。
西暦220年代に病没した模様。
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呂岱定公
呂岱 (りょたい)
  字は定公。呉の南方経営の功臣。
 呉の南方には少数民族・豪族が数多く存在し、事あるごとに呉の支配に抵抗した。
特に交趾地方一帯には士氏が大きな力を持っていた。そこで彼は士氏の力をそぐ措置を行い、士氏がこれに抵抗すると兵を動員してこれを滅ぼし、交州を平定した。
 その後は荊州に転じて武昌に駐屯したが、南方に変事があるとそのたびに出動してこれを鎮定した。
陸遜が死去するとその後任として諸葛恪とともに荊州を統括し官は大司馬に昇った。
西暦256年病没。享年96、当時としては大変な長命である。
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