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三国志を作る
我々の愛する三国志を形にしていきます!題して「三國志を作る」 


2012年 新企画始動!曹操28将フィギュア化

三国志を作る曹操28将
光武帝 雲台二十八将になぞられています。
曹操を支える名将28将を選び作ります。

鉄人28号の「28」ともちょっぴりかかっています。


フィギュアを作る
2012年神戸市「KOBE三国志ガーデン」 にて原型展示しております。

三国志フィギュアとしては最上級のレベルの原型展示をぜひごらんにいらしてください。

三国志フィギュア展示

ジオラマ館では、てんごさんたちが作った約2,000体、約150シーンの三国志演義ジオラマと共に展示。

 最初は7体からスタート予定。 数年をかけたプロジェクト。ご期待下さい。

 

【曹操二十八将】
 
<未登場>
大魏武帝 曹操
尚書令  荀ケ
軍師祭酒 郭嘉
征東将軍 張遼
中軍師  荀攸
征西将軍 夏侯淵
都督護軍 趙儼
盪寇将軍 張コウ
太中大夫 賈ク
後将軍  朱霊
御史中丞 陳羣
丞相主簿 司馬懿



写真をクリックすると拡大画像が閲覧できます。

楽進(がくしん)

 字は文謙。曹操麾下の勇将。曹操挙兵時からの部下であり、かなりの古株である。体が小さかったためか、最初は文官として起用されていたが戦場で敵陣へ一番乗りの活躍を見せて頭角を現していった。曹操の主だった戦いにはすべて参加しており、その度に功績を挙げて最終的には右将軍という高位の将軍位を拝命、いわゆる魏の五将軍に列している(ほかは張遼・于禁・徐晃・張コウ)。
 楽進の武将としての見せ場は、215年の合肥の戦いである。赤壁の戦いの後、張遼・李典とともに合肥に駐屯して、東部戦線を担当することになったが、実はこの三人はそりが合わず、かなり仲が悪かった。しかし3人とも公私の分別をわきまえており、いざ戦いとなると団結して孫権軍にあたった。この戦いで張遼が孫権をあと一歩のところまで追い詰める大戦功を上げるが、それも後方をがっちり固めた楽進のサポートあればこそである。
 218年病没。なお演義においては、濡須口の戦いで甘寧の矢が顔に当たり、その後登場しなくなることから、これで死亡したかこの傷が元で没したかのような印象を受ける。
 

1

 

于禁文則
于禁(うきん)

 字は文則。曹操軍団では古参の大将の一人であり、魏の五将軍。まだ弱小軍閥であった頃の曹操を高く評価していた鮑信の家来として歴史に登場する。鮑信の戦死後、曹操陣営に移籍、後は戦いの度に手柄を立てて、出世していった。
 張繍との戦いで曹操軍が大混乱となったとき、追撃してくる敵軍を撃退し、また略奪を働いた青州兵を討伐するなど軍規をよく守る厳格な将軍という印象を受ける。このとき、青州兵を攻撃したために于禁が謀反をおこしたという噂が流れたが、その弁明よりも敵に対する備えを最優先に行動、後に曹操に大いに評価された。のち、一軍の司令官として別働隊としての行動や地方の反乱鎮圧などで功績を挙げていく。このままいけば、魏軍の中核を担う要職に就いたであろうが、219年の樊城の戦いで、漢水の氾濫にあってしまい関羽に敗北、捕虜となってしまう。ホウ徳をはじめ、降伏を拒み斬首された武将もいたが、于禁は降伏。関羽の敗死後、呉軍により救出され後に魏に送還された。以後、降伏を非難する直接、間接の非難に晒され、まもなく病死してしまう。 
  演義においてその最期が災いし劉j一族暗殺やホウ徳の進言を無視するなど嫌な役回りとなる。
 

1

 

夏侯惇(かこうとん)

 字は元譲。曹一族の筆頭。隻眼がトレードマークの三国志でもかなりメジャーな武将である。寝室への出入りを許されたり、不臣の礼の配慮を受けるなど、曹操が最も信頼した武将である。曹操の挙兵時より付き従い、以後主要な戦いにすべて参加している。
演義においては、敵将との一騎打ちや射抜かれた左目を食べるなど勇猛、豪胆な人物として描かれているが、史実においては、敵に誘拐されてしまったり、沛では高順に博望坡では劉備に敗れたりと、あまり戦争が得意ではないようである。それでも、諸将に睨みのきく存在として晩年は、曹操のかわりに対孫権の大軍団を預かるなどしている。曹操の死後、魏の大将軍に就任したが、主人の後を追うかのようにまもなく病死した。(※不臣の礼:魏国成立時、曹操軍団の主だった武将は魏の官職を与えられたが、夏侯惇だけは漢王朝の官職(伏波将軍・河南尹)のままであった。これは漢帝の臣ということでは、漢の丞相である曹操と同格であり、家来扱いしないという最高の扱いである。なお、夏侯惇自身はこの特別な扱いを嫌って、結局は魏の前将軍を拝命している。)
 

3

 

臧覇(ぞうは)

 字は宣高。泰山一帯を根拠地とする中小軍閥連合のリーダー。はじめは陶謙の部下として黄巾賊の討伐をして、頭角を現す。やがて自立し、新しく徐州の主となった呂布と同盟し、曹操と戦った。なお、演義においては、最初から呂布の部将として登場する。官渡の戦いでは、徐州方面を一任され、袁紹領の青州へ攻め込みこれを撃破、曹操軍の側方の安全を確保するに大きく寄与した。その後も徐州、青州といった曹操領の東部方面を担当した。演義では、赤壁の戦いで徐庶の進言により涼州の馬騰らに備えるために派遣され、物語からはそれ以後登場しなくなるが、史実においては、赤壁以後のほうが彼の活躍の幅は大きい。主に呉軍を相手に活躍し、最終的には官は執金吾にまで昇った。ただ、東部方面を長く担当し、その地方に大きな影響力を持っていたため、晩年は魏政府に警戒され、兵権を剥奪されるなど不遇であったようだ。
 三国志の武将としては、かなりマイナーな部類に入ると思うが、魏の東部領を一手に担当していた影響力と実力おいてはメジャーどころも武将に引けをとらないと思い、28人に選出。
 

4

 

徐晃(じょこう)

 字は公明。8いわゆる魏の五将軍の1人。董卓系の武将である楊奉の部下として登場する。献帝が長安を脱出した際に、楊奉もこれにしたがったため、徐晃も献帝の護衛を務めた。その後、曹操が献帝の
擁立に乗り出すと、主人の楊奉に曹操へ味方するよう進言したが、結局楊奉と曹操は戦いとなり、楊奉は敗北、徐晃は曹操に帰順した。演義においては、このとき大斧を武器とする
武将として登場し、曹操の猛将である許チョと一騎打ちをし、互角の戦いを見せた。その後、官渡、赤壁、潼関、関中と主だった戦いにはすべて従軍し、抜群の功績を挙げた。
関羽が樊城を攻撃すると、後詰として出動し、厳重に張り巡らされた包囲網を次々と突破して、関羽軍を撃破した。このとき曹操は「孫武・司馬穰苴にもまさる功績」と激賞している。その後、楽進の後任として右将軍を拝命。曹丕の代になってからも、呉、蜀相手に勝利を重ねている。227年病没。しかし演義においては、1年寿命を延ばされ、孟達が謀反を起こし、これを鎮圧する作戦に参加、しかし攻城戦のさなか孟達の矢が頭にあたり、戦死するという最期となっている。
 

5

 

典韋(てんい)

 字は不明。曹操の親衛隊長を務める豪傑。その怪力から誇大の豪傑になぞらえて悪来とあだ名された。曹操には、夏侯惇の推挙により使えることになった。以後、演義においては、敵将との一騎打ちなど、その武勇を発揮する場面がいくつも用意されているが、正史においても一騎打ちこそないものの前線指揮官として敵陣に突撃して、これを占拠する活躍を幾度も見せた。建安2年(197年)降伏していた張繍が謀反する事件が発生する。このときは敵軍が曹操の陣所を襲い、曹操の命も危なかったが、典韋は陣門に踏みとどまり、曹操が脱出する時間を稼いだ。しかし多勢に無勢であり、満身に傷を受けて、戦死した。後、曹操は典韋が戦死した近くを通りかかると、必ず典韋を祭りその武勇を惜しんだ。
 なお、典韋の武器は双鉄戟とされているが、通常は2本一対の鉄戟であるが、演義においては月牙(戟の横についている三日月状のパーツ)が2つあるタイプの武器という設定に変わっている。よって、フィギュアに持たせているのは、演義の双鉄戟をイメージしている。
 
 

6

 

李典(りてん)

 字は曼成。乗氏県の非常に有力な豪族の当主。演義においては反董卓連合軍以来の古参の武将として描かれているが、史実において李典が表舞台に登場してくるのは190年代の後半、李典の叔父やその息子が死亡し、当主の座を継いだときからである。その後は対袁家との戦いや劉備との戦いに、北に南にと転戦している。
 冀州が平定され、曹操がギョウ城に新しい本拠を定めると、李典は一門眷属1万余人をつれて、ギョウ城に移住した。曹操はこの行為を高く評価して、破虜将軍に任じている。赤壁の戦いの後は、張遼、楽進とともに合肥に駐屯して、孫権に備えた。この3人はかなり仲が悪かったが、戦いに望んでは私情を捨てて、協力しあった。215年孫権が10万の軍勢で、合肥に攻め込んでくると当初の作戦通り、楽進が城を守り、張遼、李典が出撃し、大いに孫権軍を混乱させ、見事大軍を撃退して見せた。
 知友兼備の大将であったが、合肥の戦いの後、まもなく病死した。36歳の若さであった。もう10年寿命があったならば、魏の五将軍と同等程度の高位に上っていたと思われる。
 

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王粲(おうさん)

 字は仲宣。後漢末を代表する文化人である建安七子の1人である。抜群の記憶力と文才を持ち、当時の大学者である蔡ヨウにも認められる人物であったが、ぱっとしない外見であったため、官僚としては出世できなかった。長安の戦禍が激しくなると荊州へ疎開。劉表の庇護を受けるが、やはり外見が影響してか、劉表も彼を重用しなかった。
208年劉表が没し、劉jが跡を継ぐ。すでに曹操軍が南下を開始しており、王粲は劉jを説得して曹操に降伏させている。213年、曹操が魏公の封爵を受けて、魏公国が成立すると、侍中を拝命した。主に宮廷の儀式や制度を相談するブレーンとして活躍した。217年病没。
 彼も演義においては、目だった活躍があまりないため、マイナーな武将の1人ではあるが、曹操期の武将の中で、文化面への影響を考えると建安七子ははずせない。そのなかで、代表格である王粲を文化枠ということで、28人に選出してみた。
 

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董昭

 字は公仁。曹操の幕僚の1人であり、主に朝廷工作で活躍した。活動を見る限りは、 根回しや謀略といった“寝技”が得意な人物のようである。最初は袁紹に使えたが、 讒言で処罰されそうになり逃走する。その後、長安から脱出した献帝一行に合流した。
当時は、董卓の残党に代わって献帝を擁立しようとする勢力がいくつもあったが、 董昭はその中での曹操に接近、他勢力の献帝擁立を妨害して、曹操の拠点である許昌に 献帝を移すことを成功させる。
 彼が最も活躍したのは、曹操の魏公、そして魏王就任でおいてである。後の魏帝国礎 作りに大きく貢献した彼であるが、演義や小説などでは、その過程で荀ケを自殺させる 原因を作った人物として描かれることも多く、かなりイメージが悪い。基本的には演義 において、魏の武将は悪く書かれてもそれはフィクションのことが多いのであるが、 董昭に関しては、史実においても嫌われているエピソードがあり、もしかしたら同僚か らは曹操におもねって出世するいやな奴と思われていたかもしれない。
 曹操の死後も順調に昇進、最終的には三公に昇った。
 

9

 

程c
程c (ていいく)

 字は仲徳。えん州東郡東阿県の人。曹操の創業を支えた、主要な参謀の1人。記録によると身長が191cmあったらしく、これは曹操陣営でも屈指の長身である。
 もともとは程立という名前だったが、泰山に登って太陽を捧げ持つ夢をよく見たことから、cに改名した。
曹操に仕官して以後は、曹操遠征時の留守居役としてえん州にとどまることが多かった。 これは彼がえん州出身者であり、かつ名前の知れた人物だったため適任とされたのだろう。張バク、陳宮が呂布を引き入れて反乱した際には、反抗拠点を固守してその任を全うした。さらに荀ケとともに献帝を保護して天下に号令をかけるよう曹操に進言したもの彼の大きな功績の1つである。
 ただし彼が他の参謀たちと異なる点は、彼の官職に現れているといえる。尚書という文官らしい肩書きも有しているが、同時に東中郎将・済陰太守・都督えん州事という武官 、地方官の肩書きも有していた。(その後も老齢になり中央に名誉職が与えられるまで ○○将軍という武官職を長く務めている。)
  豫州の許昌に拠点を移して以後、彼がえん州軍の司令官をしていたのだろう。現に官渡の戦いの際にはえん州に駐屯していた。曹操の幕僚の主流は荀ケを中心とする潁川郡出身者であり、その派閥に属しない彼は、純粋な参謀として頭角を現せなかったのかもしれない。
 なお三国志演義においては、徐庶の母親を人質にしたりと陰険でセコい策略を使う策士に描かれているが、実際の彼は、剛直な人間のようだ。
 

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