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三国志を作る
我々の愛する三国志を形にしていきます!題して「三國志を作る」
力作のオリジナルフィギュアがあれば掲載します!

-----  三国志武将 (胸像)  -----
----- 三国志ジオラマ -----
   
No.001
太平教団幹部会議
  公孫淵 献帝 諸葛亮 羊コ 満寵 朱然  
No.002
董卓、北芒に天下を得る
  張バク 張魯 劉備 王濬 荀イク 呂岱      
  陶謙 孟達 蒋エン 杜預 曹仁 徐盛      
  劉ヨウ 公孫サン 費イ トウ艾 曹洪 張昭      
  劉璋 呂布 諸葛誕 鍾会 曹休 魯粛  
--- リスペクト蒼天航路 ----
  李カク 董卓 カン丘倹 夏侯淵 曹真 呂蒙  
フィギュア展示終了しました
 
  郭シ 袁術 文欽 夏侯惇 曹爽 陸遜  
  張済 袁紹 孟獲 陳羣 曹叡 陸抗      
  何進 ホウ統 魏延 張遼 曹丕 孫晧  
--- リスペクト人形劇三国志 ----
  劉表 馬謖 趙雲 于禁 曹操 孫策  
劉備 関羽 張飛
趙雲 諸葛亮 司馬徽
呂布 貂蝉 董卓
曹操 夏侯惇 張遼
周瑜 孫権 魯粛
袁紹    
  文醜
馬超 司馬懿 張コウ 曹奐 孫権  
  顔良 劉禅 司馬師 徐晃 張角 孫堅  
  淳于瓊 姜維 司馬昭 賈ク 諸葛恪 周瑜  
  袁尚 黄忠 司馬炎 張繍 孫峻 盧植  
  袁譚 張飛 賈充 郭淮 孫チン 曹植  
    関羽   臧覇 丁奉    

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諸葛誕・毋丘倹・文欽
諸葛誕(左)・毋丘倹(中)・文欽(右)
(しょかつたん)   (かんきゅうけん)  (ぶんきん)
 諸葛誕:字は公休。諸葛亮とは同族である。
      西暦252年、司馬師は三方面より呉に侵攻する作戦を発動、諸葛誕は東興を攻めたが
      諸葛恪・丁奉の軍に敗れた。その後・毋丘倹・文欽が反乱を起こすと豫州の諸軍を率
      いて鎮圧にあたった。鎮圧後は寿春にあって、混乱に乗じた呉の侵攻を撃退するなどの
      功績をあげた。しかし中央との関係が次第にギクシャクし、償還命令が出るとついに彼
      自身も反乱に踏み切った。諸葛誕は十数万の軍勢を集め、さらに呉へ救援を求めたが、
      司馬師は二十六万の兵力でもって包囲し、呉の援軍を断ち切った。諸葛誕は何度も包囲
      を破ろうとしたが失敗、兵糧もつき兵が次々と投降して追い詰められていった。最期は
      旗本の兵を率いて突撃を敢行、討ち死にした。

 毋丘倹:字は仲恭。明帝(曹叡)とは太子時代からの付き合いで、大層厚遇された。
      遼東の公孫淵討伐には、幽州諸軍や烏丸族を率いて臨んだが失敗。翌年司馬懿ととも
      に再度遠征して公孫淵を斬り、その後も北方にあって高句麗を討伐、首都の丸都を破った。
       東興の戦いで諸葛誕が敗れると、諸葛誕と交代に東方に駐屯し、文欽とともに合肥に
      侵攻してきた諸葛恪を防いだ。しかし親しかった夏侯玄・李豊が司馬氏に対してクーデ
      ターを起こそうとして殺され、次第に不安に駆られていった。西暦255年文欽とともに
      司馬氏追討の兵を挙げるが、各方面からの攻勢を受け進退窮まり兵は離散、毋丘倹は
      水辺に隠れていたところを周辺の住民により殺された。

 文欽: 字は仲若。勇猛でありたびたび戦功をあげた。西暦255年毋丘倹とともに司馬氏追討の兵
      を挙げるが失敗、呉へ亡命した。その後諸葛誕が魏に反乱すると呉の援軍として、寿春に
      入った。しかし次第に諸葛誕と対立するようになり殺された。

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蒋エン・費イ
(左)(右)
(しょうえん)     (ひい)
 蒋エン:字は公エン。諸葛亮の後継宰相。
      ホウ統同様、県令程度の役職では不満で免官になった前歴がある。北伐では後方で物
      資の輸送に従事した。諸葛亮没後は、蜀の全権を掌握し大過なく政を執りおこなった。
      彼には北伐の経験から、漢水を下って上庸・魏興方面に進出する作戦があったようだが、
      病から実行されなかった。西暦246年病没。

 費イ: 字は文偉。諸葛亮の後継宰相。
      蜀将の魏延と楊儀は犬猿の仲であったが、費イは仕事に支障がないよう彼らにわって入り
      とりなしていたようだ。
      諸葛亮没後は蒋エンとともに国政を担当した。西暦244年魏の曹爽が漢中に侵攻してくると
      これを撃破した。
      西暦253年正月、宴会の席で魏から降伏してきた郭循により暗殺された。

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劉備
劉備 (りゅうび)
 字は玄徳。蜀漢の初代皇帝(昭烈帝)。
 黄巾の乱に義勇兵を率いて官軍に参加、名をあげた。その後旧友・公孫サン陣営に加わった。
 西暦193年、曹操が徐州に侵攻すると、刺史・陶謙の援軍に赴く。陶謙には深く信頼され、その死に際して徐州を託され、初めて領地を得た。しかし当時身を寄せていた呂布により乗っ取られ、劉備は曹操のもとに落ち延びることとなった。
 呂布滅亡後、機を見て再び徐州の主に返り咲き、曹操に反旗を翻すが敗北、今度は袁紹を頼った。袁紹が官渡の戦いで敗れると荊州の劉表のもとに身を寄せた。
 西暦208年、曹操が南征軍を起こすと荊州は降伏、劉備は江陵に拠って対抗しようとしたが、その途上長阪で大敗し、張飛らの活躍でなんとか逃れることができた。その後起った赤壁の戦いでは呉と連合し、周瑜の活躍で曹操軍を撃退した。
 赤壁の戦い後、空白地と化した荊州南部を領有、地盤を築くと西方益州の劉璋を降して 『天下三分』を現出させた。
 しかし兼ねてより呉との懸案であった荊州領有問題がこじれ、荊州が呉に占領され総督・関羽が討たれてしまう。西暦221年、劉備は蜀漢を建国し皇帝となったものの、呉に報復したい気持ちを捨てきれずついに出兵した。当初は呉軍に連戦連勝であったがまもなく戦線は膠着、長期戦となる。状態を打開できず士気が低下したところを呉将・陸遜に攻撃され大敗した(夷陵の戦い)。まもなく失意のうちに病死する。
 いわゆる『劉備顔』があるように思います。経歴から想像するにとても上品な顔立ちの人物像(劉備顔)ではないはずなのですが、そう作ってしまうと劉備にならないのですよ。
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諸葛亮
諸葛亮 (しょかつりょう)
 字は孔明。蜀の丞相。ホウ統の『鳳雛』に対して『臥龍』と謳われた英傑。
 劉備に三顧の礼を受け、天下三分の計を開陳し、その幕僚となったことはあまりに有名。その後劉備が崩ずるまで主に内政を担当した。劉備臨終に際しては後事を託された。
 蜀の全権を掌握すると、不服従域であった南中を平定、異民族の慰撫に努めるとともに兵員不足を補うべく、精悍な者を軍に編入、魏遠征に備えた。
 西暦228年魏領祁山に進出したが、街亭で敗戦し撤退した。以後幾度も北伐を行うが魏の持久戦術に苦しみ、戦果を挙げることができなかった。西暦234年5度目の北伐。五丈原に兵を進めるが、またも長期戦となる。長年にわたる激務から病を得てかの地で陣没した。
 諸葛亮の定義は、面長な顔・切れ長の目・頬?のヒゲ・独特の冠・羽扇です。
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関羽
関羽 (かんう)
 字は雲長。劉備旗揚げ以来の武将。張飛同様兵一万人に相当する武勇の持ち主。
 劉備は徐州で曹操に反旗を翻した際には、下ヒ城を守備、劉備が潰走すると曹操に降伏した。曹操に厚遇されたが、劉備への忠節を捨てず、白馬の戦いで顔良を討ち取る戦功をあげ曹操への義理を果たしてそのもとを辞し、劉備に帰参した。
 劉備入蜀後は、荊州を預かり中原進出の機会をうかがった。西暦219年関羽は魏の前線基地・樊城に出兵、救援の于禁軍を漢水の洪水を利して壊滅させ、魏を震撼させた。
 しかし外交が不得手の関羽は、同盟者の呉との意思疎通を欠き、魏呉連携・同盟破棄を招いてしまう。呉により本拠を占領され、関羽軍は瓦解、関羽は捕らえられ斬られた。
 張飛同様特徴があるので、色黒・長いヒゲ・太い眉・切れ長の目、これがそろえば関羽以外のものにはならないと思います。
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張飛
張飛 (ちょうひ)
 字は益徳。劉備旗揚げ以来の武将。兵1万人に相当する武勇を誇る猛将。
 西暦208年曹操軍が南下、荊州がこれに降伏し、劉備が敵中に孤立した際には殿を受け持ち、虎口を脱する時間を稼いだ。劉備が入蜀した後、漢中を巡って魏と攻防を繰り広げたときには、巴西に進出してきた張コウを撃破した。
 張飛は、身分の高い者には敬意を払うものの身分の低い者の扱いは酷かった。このため劉備は、張飛が部下によって殺されるのではと憂慮していたが、果たしてその通りとなった。
 丸顔・虎ヒゲ・団栗眼、この要素を含んでいれば、どう作っても張飛になります。ちなみに大喝しています。

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黄忠
黄忠 (こうちゅう)
 字は漢升。劉備が荊州南部を領有するとその臣となった。その後劉備の入蜀に随行し抜群の戦功をあげた。
 西暦219年、漢中を巡る魏との攻防では、夏侯淵を斬る大功をあげ、劉備の益州確保に大きく貢献した。翌年病没。
 老将として知られる黄忠ではあるが、生年不詳なので本当のところは不明。
  晩年の大活躍に比べて、前半生がぱっとしないのは、個性がきつ過ぎるので主人を選ぶ人物なのではと思ってしまいます。

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姜維
姜維 (きょうい)
 字は伯約。魏の将であったが、諸葛亮の北伐軍に降り重用された。
 彼は対魏政策では急進的であったが、専守防衛政策をとる宰相の蒋エン・費イにより権限が抑えられていた。しかし二宰相が死去すると、大きな兵権を獲得、盛んに魏領に討って出た。
 この魏遠征は、結果として蜀の国力を疲弊させてしまうこととなる。魏の西部戦線には郭淮・ケガイらが配置され防備を固めていたからであった。西暦263年魏の討蜀軍が来寇すると姜維は要衝・剣閣に篭って鍾会率いる主力軍を防いだ。しかし迂回路を通ったケガイ軍が成都を降し、蜀は滅亡、姜維も鍾会に降伏した。
 その後鍾会は魏に反乱を起こそうとして失敗、姜維もその混乱の中で殺された。
 最近の姜維像は若手の武将でヒゲのないものが多いのですが、彼の活躍時期は40を過ぎてから。だから若手でもないだろうとヒゲを生やしております。
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劉禅公嗣
劉禅 (りゅうぜん)
 字は公嗣。蜀の後主。
 諸葛亮ら首脳陣の補佐のよろしきをえて、彼の治世の前半は大きな問題なく過ぎたが、蒋エン・費イが死去した後は、宦官の黄皓を重用し国政を混乱させた。さらに姜維の無理な魏遠征も重なり、蜀の国力は次第に疲弊していった。
 西暦262年ケガイ・鍾会らを将とする魏の大軍が来寇、あっさりこれに降伏した。
 助命され洛陽に移住してからのエピソードは、同じ亡国の君でも孫晧とは大違いです。

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馬超孟起
馬超 (ばちょう)
 字は孟起。涼州の豪族・馬騰の子。
 西暦211年、曹操が西方進出の動きを見せると、馬超は韓遂ら涼州の諸軍と連合し挙兵した。潼関に進出し曹操軍を迎え撃つものの、曹操の参謀・賈クの策略にかかり敗れた。
 その後も曹操軍に対し抗戦を続けるが、戦況は苦しく漢中の張魯のもとへ落ち延びるを余儀なくされる。しかし張魯の姿勢に失望し、やがて劉備軍に投降した。
 当時劉備軍が成都を包囲中であり、馬超来降をしった劉璋軍はその武威を恐れ成都を開城した。
西暦222年病没。
 馬超のトレードマークともいえる獅子頭飾りの兜。一応獅子頭はつけましたが、あれはどういう構造になっているのでしょう?
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