諸葛誕(しょかつたん)・カン丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)

諸葛誕(しょかつたん)・カン丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)

諸葛誕:字は公休。諸葛亮とは同族である。
西暦252年、司馬師は三方面より呉に侵攻する作戦を発動、諸葛誕は東興を攻めたが諸葛恪・丁奉の軍に敗れた。
その後・毋丘倹・文欽が反乱を起こすと豫州の諸軍を率いて鎮圧にあたった。
鎮圧後は寿春にあって、混乱に乗じた呉の侵攻を撃退するなどの
功績をあげた。しかし中央との関係が次第にギクシャクし、償還命令が出るとついに彼自身も反乱に踏み切った。
諸葛誕は十数万の軍勢を集め、さらに呉へ救援を求めたが、 司馬師は二十六万の兵力でもって包囲し、呉の援軍を断ち切った。
諸葛誕は何度も包囲を破ろうとしたが失敗、兵糧もつき兵が次々と投降して追い詰められていった。
最期は旗本の兵を率いて突撃を敢行、討ち死にした。

毋丘倹:字は仲恭。明帝(曹叡)とは太子時代からの付き合いで、大層厚遇された。
遼東の公孫淵討伐には、幽州諸軍や烏丸族を率いて臨んだが失敗。
翌年司馬懿とともに再度遠征して公孫淵を斬り、その後も北方にあって高句麗を討伐、首都の丸都を破った。
東興の戦いで諸葛誕が敗れると、諸葛誕と交代に東方に駐屯し、文欽とともに合肥に侵攻してきた諸葛恪を防いだ。
しかし親しかった夏侯玄・李豊が司馬氏に対してクーデターを起こそうとして殺され、次第に不安に駆られていった。
西暦255年文欽とともに司馬氏追討の兵を挙げるが、各方面からの攻勢を受け進退窮まり兵は離散、毋丘倹は水辺に隠れていたところを周辺の住民により殺された。

文欽:字は仲若。勇猛でありたびたび戦功をあげた。
西暦255年毋丘倹とともに司馬氏追討の兵を挙げるが失敗、呉へ亡命した。
その後諸葛誕が魏に反乱すると呉の援軍として、寿春に入った。
しかし次第に諸葛誕と対立するようになり殺された。

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