諸葛恪

 字は元遜。呉の重臣・諸葛瑾の子。諸葛亮の甥にあたる。
 諸葛恪は若いころより才気煥発で孫権に大変気に入られた。しかし、父・諸葛瑾はかえってその才能が諸葛家に禍をもたらすのではと心配したとされる。
 当時、異民族の山越対策は呉の懸案であった。諸葛恪は彼らを上手く鎮撫・帰順させ、大勢の兵
を得ることができた。これらの功績を含め、孫権の信頼厚く、その死に際して後事を託された。
 孫亮が即位するとすぐに大将軍・大傅に任じられ、諸葛恪は独裁体制をしいた。そして租税の減免などの人気を集める一方、東興に城塞を築いて淮南の防衛を強化した。
 西暦252年、魏は諸葛誕らに大軍を与え東興の攻略を命じたが、諸葛恪は丁奉らを先鋒にこれを奇襲し大勝した。
 戦勝に味を占めた諸葛恪はさらなる戦果を得ようと翌年合肥新城に兵を進めたが新城の守りは堅く戦線は膠着、軍内に疫病が流行し撤退を余儀なくされた。この遠征には当初から反対が多く、それを押し切ってのものであったため、その失敗は諸葛恪の声望を急落させた。
 これを契機に孫峻らは彼を打倒せんとする策動を活発化させた。
西暦253年、諸葛恪は宴席に出たところを暗殺された。

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