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三国志・ 三國志の計略


★三国志の計略を紹介するコーナー

  三国志の醍醐味の1つは知恵と知恵との戦いである「計略」にあるといってもいいでしょう。

 とはいえ、今の時代でそれを活用することはなかなか難しい話です。というのもこれら計略というのは大半が人を陥れるようなものが多いからです。三国志の時代は生死がかかった戦いの真っ只中。
しかも国を動かす人たちのお話。現在、大半の人は平和に生活している現代では人を陥れたりすることより、人と和して共存していく方法を勉強すべきであるとは思いますが、戦時中にできる限り犠牲を減らし味方を優位にする。そんな策士たちの活躍の一端を知っていただければ幸いです。

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■  目 次  ■

  苦肉の計[苦肉の策] (くにくのけい)
  贋書の計(がんしょのけい)
  十面埋伏の計(じゅうめんまいふくのけい)
  天下三分の計(てんかさんぶんのけい)
  二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)
  駆虎呑狼の計(くこどんろうのけい)
  美女連環の計(びじょれんかんのけい)
  離間の計(りかんのけい)


苦肉の計(苦肉の策)   くにくのけい

 「苦肉(くにく)の計(苦肉の策)」はもともとは「兵法三十六計」による戦術の一つで、「害は必ず他人から受けるもので、自らが自らを害するということはない。そのため害された者は信用できる」という人間心理の逆を突いて人を欺く策略です。

現在では「敵を欺くために自分を傷つけてまで行うはかりごと」、「苦しまぎれの手段」などという意味で使われています。これは『三国志演義』において、黄蓋(コウガイ)が周瑜(シュウユ)と謀って曹操(ソウソウ)を欺き、赤壁の戦いで大勝利をおさめた話が語源となっています。

 決戦の地「赤壁」。孫権(ソンケン)軍の大都督周瑜は、河岸に対峙する曹操軍を攻めあぐんでいました。呉の老将軍である黄蓋が訪れ、敵の大要塞に火をつけ一気に焼き払ってしまおうという火計による攻撃を提案します。周瑜はその計を実行するには呉から曹操の陣へ偽りの降人を送り込む必要があるが、それに見合う人物がいないとため息をもらします。すると黄蓋がその大役を買って出ました。

兵法に通じる曹操を欺くには並大抵の嘘では通用しません。そこで周瑜と黄蓋は示し合わせ、皆の前で、周瑜の采配に対して苦言を呈した黄蓋を、血まみれになるまで棒罰に処します。その恨みを理由に黄蓋は曹操へ投降する旨を手紙にしたため、使者に託します。あまりにも痛ましい処罰に誰も黄蓋が本心から投降したと思いました。実は周瑜としめし合わせて打った芝居だったのです。

黄蓋を信じた曹操は、やって来た黄蓋の船団を喜んで迎えようとしました。しかしその船にはかれ草や藁が満載されており、曹操がそれに気づいたときには時すでに遅し、枯れ草に火をかけた船団が一気に突っ込んできました。「東南の風」に煽られまたたくまに燃え広がり、曹操軍はたちまちのうちに壊滅してしまいます。こうして己の肉体を傷つけ、苦しんでまで敵を欺いたこの作戦は、結果大勝利をおさめることとなりました。

なお、歴史書において、黄蓋の偽りの降伏と火攻めは記述されていますが苦肉の計は登場しません。

■贋書の計(がんしょのけい)

「贋書の計(がんしょのけい)」とは『三国志演義』の中で、劉備(りゅうび)の軍師となっていた徐庶(じょしょ)を、曹操(そうそう)のもとに呼び寄せるために程イク(ていいく)が用いた策です。

曹操軍は、劉備軍を新野城(しんやじょう)を攻めたものの、完膚なきまでに敗北し、拠点の樊城(はんじょう)まで奪い取られてしまいます。その敗因が劉備の新たな軍師徐庶の采配によるものだということを知った曹操は、何とか徐庶を自分の配下にできないかと程イクに相談します。程イクは徐庶の幼い頃からの学友でした。

まず程イクは、徐庶の母を都に呼び寄せ人質とし、息子宛てに手紙を書かせ彼をおびき寄せようとします。しかし、徐庶の母は言うことを聞かず、手紙を書こうとしません。そこで程イクは徐庶の母に贈り物を贈り、その礼状の筆跡をまねて手紙を偽造します。ひとり都での寂しい思いを綴った母からの偽造の手紙を受け取った徐庶は涙を流し、劉備にこのことを打ち明け母の元へ向かう事を告げます。

こうして徐庶は置き土産に諸葛亮を推薦して無念の思いで劉備の元を去るのでした。
しかし徐庶が着いてみると、徐庶の母は劉備への忠義を裏切った徐庶を叱り、その怒りと悲しみから自害してしまいます。
その後、徐庶は曹操に帰順することとなりますが、曹操に仕えても劉備の不利になるような献策をすることはありませんでした。

■十面埋伏の計(じゅうめんまいふくのけい)

「十面埋伏の計(じゅうめんまいふくのけい)」とは、曹操(そうそう)と袁紹(えんしょう)との倉亭(そうてい)の戦いにおいて程c(ていいく)が献策した策です。10隊の伏兵と囮部隊で敵を攻撃する計略です。隊を右に5隊、左に5隊に分け、伏兵としてひそませておき、別の先鋒隊が囮となって敵を誘い込んだところを、その伏兵たちが順に繰り出し敵を攻撃する作戦です。

官渡(かんと)の戦いで曹操に大敗を喫した袁紹(えんしょう)でしたが、その後援軍に駆けつけた息子達とともに再起し、再び倉亭の辺りまで兵を進めてきました。勢いを盛り返した袁紹軍に押され気味の曹操は、程cの勧める「十面埋伏の計」を聞き入れ、実行に移します。

曹操は黄河を背にした場所に陣を改めて背水の陣(はいすいのじん)を敷き、周りに左右5隊ずつ、計10隊の伏兵をひそませます。隊の内訳は、左の第一隊を夏侯惇(かこうとん)、第二隊を張遼(ちょうりょう)、第三隊を李典(りてん)、第四隊を楽進(がくしん)、第五隊を夏侯淵(かこうえん)で、右の第一隊を曹洪(そうこう)、第二隊を張?(ちょうこう)、第三隊を徐晃(じょこう)、第四隊を于禁(うきん)、第五隊を高覧(こうらん)がそれぞれ率います。

そして先鋒を務める許?(きょちょ)が夜襲を仕掛け、戦っては引き、戦っては引きながらついに敵を罠に誘い込むと、待っていた伏兵たちが次々と袁紹軍に襲いかかります。10方向から怒濤の攻撃を受けた袁紹は、命からがら逃げ出しますが、その道中ついに帰らぬ人となりました。

これは史実には登場せず『三国志演義』の中のみでの計略です。曹操軍きっての武将達が勢揃いするという、魏ファンにも嬉しい演出です。

■天下三分の計(てんかさんぶんのけい)

 「天下三分の計」とは、群雄割拠の乱世、常に騒乱が起き、天下は広すぎてこれを統一するのは容易ではない。これを収めるには、天下を鼎の形に三分した上で他の二国を戦わせ、疲弊したのを見計らって天下を取るという策で、古くは前漢の初めに?通(カイツウ)が韓信(カンシン)に説いたのがはじめとされます。呉の軍師、魯粛も「天下三分の計」を君主孫権に奏上しています。そのなかでも最も知られているのが諸葛亮が劉備に説いた「天下三分の計」です。

若き諸葛亮が住んでいた臥龍崗(ガリョウコウ)が荊州の首都、襄陽の外れの隆中(リュウチュウ)という集落で語った事から、これを「隆中策(リュウチュウサク)」または「隆中対(リュウチュウタイ)」とも呼ばれます。
 曹操に追い立てられ、一時、劉表のもとに身を寄せていた劉備が、諸葛亮を得るために三度赴いた「三顧の礼」で、はじめに諸葛亮が劉備に奏したのが「天下三分の計」です。

「北の曹操は天子を擁し、いまや中原に臨んですべてにおいての勢力は絶大で、すでにまともに戦うことは容易ではありません。南の孫権の有する江東は長江に沿い地の利もよく、豊穣な土壌を有し、すでに孫氏三代が有してきた地盤は固まっています。いまや曹操と孫権に二分されたかのように見える天下ですが、唯一、どちらの勢力にも属していない荊州と益州を領有し、三国鼎立(サンゴクテイリツ)をなして安定を保ち、その後、機を見て呉と結んで魏を倒すことができれば、おのずと呉も手中に収めることができ、漢室の復興も成しえるでしょう。」と諭しました。

 そして、赤壁の戦いのあと、劉備はようやく荊州、益州を有することに成功するのでした。
その後、天下三分の計の実現に向かうかと思われましたが、荊州を守る関羽が呉の呂蒙、陸遜らに謀られ殺され、更にその仇討ちに出た劉備までもが白帝城に没し、天下三分の計は結果的にここで潰えてしまうことになりました。

 魏・呉・蜀の三国分立の形は保つも、本来の天下三分の計による漢室復興を成し得なかった諸葛亮は、五度にも及ぶ魏への北伐に克復中原の希望を託すことになりますが、志ならず陣中で没するのでした。

イラスト:ささめ蝉丸さん
 

■二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)

「二虎競食の計(にこきょうしょくのけい)」とは、二匹の飢えた虎の間にエサを投げ与えれば、二匹はエサを奪い合って争う。一匹は倒れ、勝った一匹も満身傷だらけになれば、二匹をしとめるのも容易くなるという作戦です。

呂布は各地を放浪した末、劉備の元に身を寄せていました。董卓(とうたく)に代わって実権を握った曹操(そうそう)は、呂布(りょふ)の武勇と劉備(りゅうび)の器量が結びつく事を恐れ、何か策はないかと将たちに訪ねたところ、荀いく(じゅんいく)が二人を虎に見立てた「二虎競食の計」を提案し、曹操はそれを採用します。

さっそく曹操は天子に詔勅を乞い、劉備を正式に徐州(じょしゅう)の太守に任じ、呂布討伐の密命を下します。義を重んじる劉備は、自分を頼ってきた呂布を手にかけるなどできぬと拒み、従う色もありませんでした。こうして「二虎競食の計」は失敗に終わってしまいますが、荀イクは第二弾として「駆虎呑狼(くこどんろうのけい)」を仕掛けていくのです。

■駆虎呑狼の計(くこどんろうのけい)

「駆虎呑狼の計(ぐこどんろう)」とは、豹(ひょう)に向かって虎をけしかけ、虎の穴を留守にさせ、この隙に狼に虎の穴を狙わせようという策です。ここで、豹は袁術、虎は劉備、狼は呂布です。
「二虎競食の計」が失敗に終わった荀イク(じゅんいく)が、次に打った策が「駆虎呑狼の計」です。

曹操は皇帝を庇護していたので、皇帝を利用した策を立てる事ができました。
まず、劉備側が皇帝に上奏し袁術(えんじゅつ)の南陽(なんよう)を攻めようとしていると情報を袁術(えんじゅつ)に伝え、一方劉備にも天子の詔で南陽を討つように命じ、両者を戦わせようとします。これが曹操(そうそう)の策略だと分かっていても、天子の命には逆らえない性格の劉備は、徐州(じょしゅう)の守りを張飛(ちょうひ)に託して出陣します。信頼を得るため禁酒を宣言した張飛でしたが、部下に振る舞った酒をつい呑んでしまい、酔いつぶれたところに、劉備の留守を知った呂布(りょふ)が隙を突いて、一気に城を奪ってしまいます。

 その後、呂布は袁術と結託し劉備を追撃しますが、袁術との折合が悪くなると、今度は劉備を呼び戻し再度協力することにします。呂布と形ばかりの和解を果たした劉備は、もともと呂布のいた小沛城(しょうはいじょう)へ入ります。結局、「駆虎呑狼の計」は、虎と狼が入れ替っただけで離反することができなかったので、成功とは言い難い結果となりました。

■美女連環の計(びじょれんかんのけい)

 「美女連環の計(びじょれんかんのけい)」は、王允(おういん)により美女貂蝉(ちょうせん)を使い、董卓(とうたく)と呂布(りょふ)の仲を裂き、呂布によって董卓を誅殺してしまおうという策が「美女連環の計」です。

 世の中は献帝を擁した董卓の権力が絶頂に達していました。殺戮・略奪を繰り返し、私腹を肥やしていく董卓の暴政。それを憂いた司徒王允。

 ある日、館の庭でため息をついていると、王允が養女として引取り、楽女として育ててきた貂蝉が協力を申し出ます。それを聞いた王允は喜び、董卓誅殺の一計を案じます。
董卓誅殺に一番の障害は、董卓の養子で天下無双の将呂布の存在でした。彼らの中を裂く事が最善の策と考えた王允。

 まず、王允は呂布を館に迎えます。その宴席で貂蝉の美貌に心を奪われた呂布に、王允は「貂蝉をあなたに献じましょう」と約束します。
 次に、王允は董卓を館に招きます。王允は貂蝉を董卓に与え董卓は貂蝉を連れ帰ってしまいました。その後、訪れた呂布は貂蝉がすでに董卓のものになっていることを知り怒ります。

 貂蝉も董卓のそばでは董卓に愛を注ぎ、帳の外の呂布と目が合えば、涙を流し呂布に哀れを乞うなど、二人の不仲を煽る事に努めます。どうしても貂蝉への思いを断ち切れない呂布は、董卓が朝廷に出仕している間に抜け出し、鳳儀亭で貂蝉と密会しますが、ちょうど朝廷から戻ってきた董卓がそれを目撃し、激怒して呂布から戟を奪い、逃げていく呂布に投げつけました。

いよいよ董卓との溝が深くなった呂布に、王允が董卓殺害計画を持ちかけます。
「朕は病弱なので、董卓に帝位を譲るべし」という偽りの帝からの詔を発して、董卓を長安におびき出すことに成功し、参内した董卓に禁門に控えていた伏兵たちが襲いかかります。絶叫する董卓を最後は呂布が斬りとどめをさして、暴政を極めてきた董卓もここに命尽きるのです。

その後、都では旧董卓派が長安奪回に押し寄せ、呂布もそれに呑まれ都落ちを余儀なくされ、王允も行き場がなくなり楼より身を投げてしまいます。貂蝉においては、董卓の討伐に成功したと聞くと自害したという話や、その後、呂布の妻になったなど、話によって様々です。

 なお、王允が呂布と図って董卓を殺害したのは事実とされますが、貂蝉自身は「三国志演義」に登場し、歴史書には登場しない架空の人物とされています。

■離間の計(りかんのけい)

 「離間の計(りかんのけい)」は、曹操(そうそう)が馬超(ばちょう)との戦いの際に用いた作戦です。

 考えたのは、三国志一ともいわれる策士・賈ク(かく)。

 馬超とそれを応援する関中軍閥といわれる韓遂(かんすい)を中心とした西涼の領主たちが連合して曹操と戦います。

 その戦いは、馬超連合軍も曹操と互角に戦い。一進一退。曹操も命からがら逃げるピンチにおちいるほど

 2か月もの戦いで次第に戦いは膠着状態になります。連合軍側から和睦の話があがります。そこで曹操は賈クと相談して連合軍の仲を裂く作戦を実施することにしました。それがこの離間の計。

 まずはじめ、韓遂にたいして曹操が一対一で話し合おうと持ち掛けます。それに応じた韓遂。しかし曹操は雑談だけして去っていきました。馬超は会話について韓遂に問うと、韓遂は雑談しただけと答え、馬超に疑心暗鬼の心が芽生えます。

 次に、曹操は韓遂に対して手紙を書きます。要所要所であいまいな表現をつかい、文字を修正している箇所をわざとつくったものを送ります。また手紙を送ったことを馬超側にも知れるように計らいます。
 案の定、馬超は韓遂に手紙の内容を尋ねます。韓遂はその手紙を見せますがい、修正箇所が韓遂が馬超に知られては困ることを消したのではないかという疑惑を生みます。韓遂は自らの潔白を証明すべく次の日、また曹操と直接会うようにして曹操を殺すことを馬超に約束します。
 次の日、韓遂はまた曹操とあうよう取り計らいます。しかし曹操は出てこず曹洪が登場し、韓遂に「約束はしっかりまもるように!」と告げます。韓遂は身に覚えがないもののそれを聞いた馬超は韓遂を完全に疑い、彼を襲います。
 韓遂は馬超に左腕をきられて、連合軍は崩壊。馬超孟起以外の連合軍は魏に降伏し、馬超だけが逃げ出して馬超が完全にやぶれました。

 強力な敵を内部から秘策をもって崩壊に導いた作戦でした。

 

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