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三国志・ 三國志の基礎知識

三国志の戦い

水関(しすいかん)の戦い

191年

 黄巾の乱が平定されてのち、後漢の皇帝霊帝(れいてい)が亡くなると少帝(しょうてい 14歳)
が即位します。
 当時、権力は皇帝を補佐する宦官(かんがん)の集団(十常侍(じゅうじょうじ) )が力をにぎっていました。
 少帝の外戚(親族)である何進(かしん)将軍は宦官誅殺の詔(みことのり)をだし、宦官たちの誅殺を計ろうとするが失敗し、逆に何進は殺されます。しかし十常侍たちはすぐに何進の配下の袁紹(えんしょう)に誅殺されます。
この機に乗じて董卓(とうたく)が洛陽に入り少帝を廃して献帝(けんてい)を擁立、実権を握るに至るのです。まさに権力の奪い合いといった状況でした。また
、権力を握った董卓は暴政を行い始めます。
 これに対して曹操(そうそう)は董卓を打倒しようという檄文を全国の諸侯へおくります。
檄文に応じて董卓を打倒すべく各地で諸将がたちあがります。

  ここに、曹操の他、袁紹・袁術(えんじゅつ)・孫堅(そんけん)・公孫サン(こうそんさん)
そして公孫サンの末席には劉備(りゅうび)たちも参加することになります。
 彼らは反董卓連合軍を結成し、大将(盟主)を袁紹と決めて戦いを挑みます。
 三方向から洛陽へ迫り包囲します。 しかし董卓軍は強力なこともあり、曹操・孫堅以外はあまり積極的に戦いませんでした。

 初戦、先鋒の孫堅は敗れるながらも兵を立て直して董卓軍をやぶり、水関(しすいかん)では
董卓の将である名将華雄(かゆう)を討ち取ります。三国志演義では関羽が討ち取ったことになっています。

 董卓は和睦を求めるものの孫堅は拒否し戦闘を継続します。
 水関・虎牢関(ころうかん)とやぶれ危機を感じた董卓は都を洛陽(らくよう)から長安(ちょうあん)に遷都するに至ります。その際、洛陽の金銀を奪い洛陽を焼き払うなどの悪逆の限りを尽くします。

 長安に逃れた董卓を追って、曹操が追撃しますが返り討ちにあって惨敗してしまいます。
深追いしすぎたこともありますが、あの曹操軍がやぶれるほど董卓軍の軍事力は強力だったともいえるでしょう。
 このことで反董卓連合軍はいったん解散。董卓は長安で生きながらえます。

 しかし、程なくして董卓は外からではなく内部から崩壊していくこととなります。
父子の誓いをした猛将呂布(りょふ)に裏切られたのです。
悪逆の限りをつくし、あまりの人望のなさが董卓の命脈をたちました。

そんな中、焼き払われた洛陽を修復していた孫堅は井戸から、皇帝の印である「玉璽」を発見するのでした。

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