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三国志の戦い

官渡(かんと)の戦い  その1

200年

河北(かほく)を平定した名門の袁紹(えんしょう)と、エン州・豫州(よしゅう)を基盤とし後漢(ごかん)の皇帝・献帝(けんてい)を擁立して着々と勢力拡大を図る曹操(そうそう)が、官渡において激突します。
 
まさに三国志時代最大規模の天下分け目の戦いです。
 
当時、袁紹の治める河北はさほど戦乱の被害も少なく、 「1州だけで人口百万、精鋭三十万」と賞されていました。 一方、曹操の治める河南は”黄巾の乱”の中心地となり、 戦乱や飢餓で苦しむ人々が大勢いました。 こうした勢力の違いは袁紹軍十数万に対し曹操軍一万という 兵力差となって現れます。

当初、まず袁紹が軍を動かしますが、曹操が機敏な対応をし、 先制攻撃を仕掛けます。 このあたりは、日本の織田信長と今川義元の桶狭間(おけはざま)の戦いを彷彿とさせます。

その後、別に敵対していた張繍(ちょうしゅう)が曹操に降伏し味方につくと曹操は自ら官渡に軍を進めます。 しかしその折、董承(とうしょう)や劉備(りゅうび)たちによる曹操暗殺計画が露見します。

曹操は袁紹との対決を控えながらも自らそれに加担した劉備を先に徐州(じょしゅう)で討伐します。
 
当然、袁紹の大軍との決戦を控えた時期でもあり留守を突かれる危険があると反対者も多く出ましたが、 「後に天下を争うのは劉備である」とし、参謀・郭嘉(かくか)の賛成もあり、 自ら劉備を討伐し3か月あまりで徐州を奪い関羽(かんう)を捕虜とします。その後、劉備は袁紹の元に身を寄せます。

一方、曹操と劉備軍が戦っている隙が、袁紹軍にとっては攻勢にでる絶好のチャンスと 参謀・田豊(でんほう)らが進言しますが、袁紹の優柔不断な性格が災いしたのと、子供の病気を理由に兵を動かしませんでした。

  そればかりか袁紹は、進言を繰り返す田豊を投獄し、同調する 沮授(そじゅ)の軍勢も取り上げてしまいます。 ここがまさに”その時歴史が動いた” 袁紹敗北の判断ミスの時でした。

 

<位置関係>

ギョウ【冀州】(袁紹) 

許昌【豫洲】(曹操)    小沛【徐州】(劉備

 

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