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三国志の戦い

官渡(かんと)の戦い  その2  (その1はこちら

200年2月

袁紹(えんしょう)が重い腰を上げて大軍を率い曹操(そうそう)討伐に向かいます。
その数 約10万、迎え撃つ曹操は約1万。

しかし、曹操側には天子【後漢の皇帝・献帝】がおり大義名分の立たない戦いに突入することになります。 ぎょうを出発し許都へ向かうその距離約250km。 そのほぼ中間地点の黄河流域が主戦場です。

  曹操軍は官渡城(かんと)を本陣とし準備万端持久戦の構えに対し、 袁紹は大軍をもって短期戦で対抗します。 緒戦、曹操軍が黄河を渡った白馬(はくば)の地を張遼(ちょうりょう)と一時曹操の元に降っていた関羽(かんう)の2名を先鋒に軍師・荀ユウ(じゅんゆう)の策で奇襲をもって攻めて勝利します。

この時、関羽が袁家の猛将・顔良(がんりょう)を討ち取ります。 この敗戦に激怒した袁紹が大軍を持って攻めにかかると 曹操はすぐに兵を官渡までさげて防戦に出ます。 ここでまたも荀ユウの策を採用した曹操は、 少数精鋭をもって顔料と並び称される文醜(ぶんしゅう)を討ち取ることに成功します。

三国志演義では文醜も関羽が討ち取ったことになっています。 双璧二人を失った袁紹は兵力はありながらも動けず 緒戦から半年の月日が流れます。

200年8月

官渡で両軍は向かい合いますが 兵力差がものをいい、さすがの曹操も敗退します。 この時、曹操は兵力の3割近くを失う惨敗でした。

 官渡城を袁紹軍は攻城兵器や土山を築いたり地下道を掘り進めたりして攻めますが、籠城した曹操軍は投石器などを使い袁紹軍をくいとめます。

  しかし、曹操軍は兵糧もつきかけて袁紹側に寝返るものも続出。曹操は敗戦をみとめ許都へ戻ろうとしますが、この地に留まるように許都を守る軍師・荀イクが提言の使者を送ってきたため、曹操も思いとどまります。
 
このタイミングで袁紹の軍師・許攸(きょゆう)が 兵力を分散させて別働隊として許都をせめるように袁紹に進言しますが 袁紹は取り上げず兵力に物を言わせた戦いに固執します。

しかし、時間がたつにつれ袁紹もその策を実行に移すことにします。

曹操に敗れ袁紹の元に身を寄せていた劉備(りゅうび)が 別働隊として曹操の後方より迂回して許都へ向かいますが、時すでに遅し、曹仁(そうじん)の前に劉備は敗退。劉備は早々に戦場をさってしまいます。

長引く攻城戦の中、曹操が奇襲にでて袁紹の輸送隊を襲い、 袁紹軍に大ダメージをあたえます。 その後、袁紹の軍師・許攸が袁紹を見限り曹操に投降します。

情報を得た曹操軍は烏そうの地
にある食料貯蔵庫を襲います。

このことを知った袁紹が最後の戦いに出ますがとき既にく、 淳于瓊(じゅんうけい)を失い張コウ(ちょうこう)・高覧(こうらん)が曹操に投降、袁紹も敗走します。

こうして官渡の戦いは曹操軍が勝利します。

その後、まだまだ袁紹側には領土や兵があったものの内部崩壊しながら袁紹は病死。その後も、息子たちが曹操軍に敗れ続け袁家は滅亡します。

ここに中国の北半分をほぼ手中にした曹操は魏建国の礎を築くのでした。

<位置関係>

ギョウ【冀州】(袁紹本拠地)


  白馬    烏そう

----------------------黄河

官渡城 

許昌【豫洲】(曹操本拠地)

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