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三国志の戦い

袁一族滅亡戦

202年〜206年

「官渡の戦い」の後、曹操(そうそう)が袁一族を滅ぼす戦いです。

このあたりの話はあまり紹介されないので 袁一族滅亡の戦いをご紹介することにします。
「官渡の戦い」で袁紹(えんしょう)に勝利した曹操は あまり深追いせず
劉備(りゅうび)討伐に向かいます。

袁紹は敗れたことで自領土の内に反乱が起きます。 なんとか反乱を押え、地盤を固めなおして 再起をかけて曹操と対峙しようとしたまさにその時。 202年、袁紹は病死してしまいます。

これに乗じて曹操はすかさず兵を動かします。
袁紹には子が三人(袁譚(えんたん)・袁熙(えんき)・袁尚(えんしょう))おり 後継者を決めずに他界したため 曹操が攻めて来るにもかかわらず後継者争いが起こります。 このことが袁一族の崩壊をより早めてしまう事になります。 このあたりは日本の戦国時代、毛利元就(もうりもとなり)が 息子三人にお互い協力しあうように”三本の矢”の訓えの様な事を袁紹が行っていれば、領土や兵にもまだまだ力のある袁家はもう少しまともな戦いが出来たと思われます。

基本的に後を継ぐべき長男の”袁譚”になるべきところです。 しかし、袁譚が本拠地から離れた青州にいる間に 生前の袁紹の意向や反対派の策略も有り三男の”袁尚”が 無理やり後を継いでしまいます。 当然、兄弟間に対立が起こります。 しかし曹操が攻めてきていることも有り 先陣として”袁譚”が迎え撃つ事になります。 後を継いだ袁尚は兄・袁譚に兵を与えたくないため 少数の兵をあたえるのみで、袁尚自らが出兵します。 こんな関係ですから協力関係も生じず曹操に惨敗します。
”黎陽”を落とした曹操は一転、劉表(りゅうひょう)のいる”荊州(けいしゅう)”攻撃に向かいます。

また、この間に袁兄弟は協力する所か 戦いを始めてしまいます。 さすがに少数の兄・袁譚は敗れて平原で 曹操に降伏し助けを求めます。 曹操は大義名分を得て再度出兵。 袁尚は曹操軍がきているにもかかわらず本拠地のギョウは 配下の審配(しんぱい)に任せて平原にいる兄・袁譚を攻めに向かいます。 曹操はその機を逃さず”ギョウ”に向かいます。

<位置関係>

故安 【幽州】(袁煕)  遼西(烏桓族)  遼東(公孫康)

ギョウ(袁尚)   平原(袁譚)

許昌(曹操)

襄陽【荊州】(劉表) 劉備


”ギョウ”攻撃は三ヶ月近く篭城が続き、 袁尚軍が兵1万をもって助けに戻りますが 曹操軍にやぶれてしまいます。 そのため、遂に”ギョウ”も開城し、敗れた袁尚は 幽州故安の次男”袁煕”のもとに逃げ込みます。

曹操は”ギョウ”を落とすと降伏はしている袁譚の存在が脅威になる前に謀殺してしまいます。 幽州の次男”袁煕”では曹操に歯が立たず、遼西の烏桓族(うがんぞく)の元に兄弟で逃げ込みます。
彼らを助けた烏桓族も曹操に敗れ滅ぼされます。

さらに西の遼東の公孫康(こうそんこう)のもとに袁尚・袁煕兄弟は逃げ込みますが 公孫康も曹操の脅威の前に二人を斬ります。

こうして名門袁一族は 滅びることになりました。

曹操はこのことで中国の北半分近くを領土に収めることなり、 名実共に最大の勢力となるに至ります。

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