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三国志・ 三國志の基礎知識

三国志の戦い

関中制圧戦 (潼関の戦い)

211年

 赤壁の戦いで大敗した曹操(そうそう)は、3年後、孫権(そんけん)・劉備(りゅうび)の守る荊州(けいしゅう)の攻略を 一旦控えて、漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)制圧に向かうこととしました。

  もともと漢中は張魯(ちょうろ)が五斗米道(ごとべいどう)という宗教国家を築いていました。曹操が西に軍を進めることを知った漢中周辺の諸侯が、対曹操連合を作ります。
 中でも直前に父・馬騰(ばとう)を罠にはめて殺された馬超(ばちょう)と、 馬騰とは義兄弟の韓遂(かんすい)が中心となって敵討ちの戦いを おこし、先に曹操へ攻撃を加えます。
(なお正史では、彼らの反乱後に馬騰は殺されています。)

  緒戦、連合軍は猛将・庖徳(ほうとく)の活躍で長安に攻め寄せてこれを奪取します。また、その勢いで潼関(どうかん)も攻め取ります。
 馬超は一騎打ちで、于禁(うきん)・張コウ・李通(りつう)を退けます。 曹操は黄河近くに陣を構えました。

 馬超・韓遂軍は曹操の渡河を阻止しようと奮戦します。そこで曹操は丁斐(ていい)の策略を採用します。事前に 買い集めた馬牛を戦場で解放して相手を攪乱させると いうものでした。見事、策が成功しなんとか河を渡りきります。これにより馬超・韓遂軍は 攻勢から守勢と逆転することとなります。  

 二手から攻めてくる曹操軍に対し不利となった 連合軍は和睦を申し入れます。 そこで曹操軍の参謀・賈ク(かく)が一計を講じます。 馬超・韓遂に墨で所々消した手紙を届け、疑心暗鬼となった 二人の中を裂くことというものです。

 これが見事に成功し、この”離間の策”で馬超が韓遂の腕を切り落とすという結果にいたります。

 なんとか生き延びた韓遂は曹操に寝返ります。 これにより完全に力を失った馬超軍はあえなく敗退 します。敗れた馬超はなんとか涼州に退却します。曹操はあえて深追いさせずに兵を引き上げます。

なお、三国志演義では、婁子伯(ろうしはく)による提案で曹操軍は「氷の城」をつくり馬超軍に対抗しますが、正史には登場しません。
 
212年
 
 馬超は西方の羌族の兵を集めて再度反乱を起こします。しかし、周辺の協力を得れずに失敗。
行き場をうしなった馬超は張魯の元へ身を寄せます。
 
215年

 曹操は張魯討伐へ漢中(かんちゅう)に向かいます。 対する張魯は弟の張衛(ちょうえい)を陽平関(ようへいかん)に向かわせて迎撃します。 張魯は過去に再三の蜀の劉璋(りゅうしょう)からの攻撃にも耐えうる 軍事的な力がありました。

 緒戦は曹操軍を圧倒した張魯軍でしたがさすがに 力のある曹操にはかなわずに敗退します。  無駄な血をながすべきでないという軍師・閻圃(えんほ)の 助言を受け入れて張魯は漢中を明け渡します。 これにより遂に曹操は漢中を手に入れる事となります。
やはりここでも、曹操はあえてさらなる侵攻はせずに兵を引き上げます。”赤壁”で大敗した事 が彼にそうさせたのでしょうか?

 ちょうど時を同じくして、劉備軍は漢中南方にあたる益州を支配する劉璋を下し勢力を拡大していました。張魯がやぶれまたもいき場をなくした馬超は劉備の元に身を寄せることになりました。

 時代は徐々に曹操・孫権・劉備という三大勢力に集約しようとしていました。

 

<位置関係>

     関中地域(馬超・韓遂)
姜族
         長安  潼関    許昌(曹操)

   漢中(張魯)   

             荊州(劉備)

成都(劉璋)

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